2007年01月30日

リカルド・ロペス

リカルド・ロペス(メキシコ)
WBC世界ストロー級、WBO世界ストロー級、WBA世界ストロー級、IBF世界L・フライ級チャンピオン
ニックネーム:フィニート
生年月日:1967.7.25
戦績:50勝37KO1分


野球では、欠点がなく高次元で打って走って守れる選手を走攻守3拍子揃った選手と呼ぶ。
日本人であれば、例えばイチロー選手を思い浮かべるだろう。
別競技の話をしてしまったが、ボクシング界におけるイチロー選手と呼びたくなるような完璧なボクサーといえば、このリカルド・ロペスをおいて他にはおるまい。ひらめき
打ってよし、守ってよし、動いてよし。くつ
研究心旺盛でテクニックも十分。
まさに何拍子も揃ったボクシングの申し子である。わーい(嬉しい顔)
ロペスは、アマチュアで40勝無敗の戦績を引っさげ、鳴り物入りで1985年にプロデビュー。
怪童と呼ばれた前評判通りの圧倒的な強さで勝ち進み、次期世界王者間違いなしとの高い評価を得る。
そして、デビュー以来25連勝を積み重ねて1990年に満を持して世界挑戦。
相手はWBC世界ストロー級王者大橋秀行。
150年に1人の天才と呼ばれた大橋だが、手数、スピード、技術でロペスが大橋を大きく凌駕。右斜め上
圧巻の5回KOでロペスが名実共に世界の頂点を極めた。
歴史の浅いストロー級ではあったが、ロペスの強さはまさに別次元。ダッシュ(走り出すさま)
打たせずに打つというボクサーの理想を体現する完璧な試合運びで、ストロー級では無敵状態。
平野公男、ロッキー・リンといった日本でお馴染みの選手が手も足も出ず倒され、サマン・ソーチャトロン、マニー・メルチョール、ケルミン・グアルディアといった後の世界王者でも相手にならず。
ロペスはほとんどの防衛戦を敵地で行ったが、あまりに力の差があり過ぎてホームだろうがアウェーだろうが全く関係なし。
敗れる姿が想像できない絶対王者とは、ロペスのような王者のことを指すのかもしれない。
それほどまでに強い王者であったが、最軽量クラスの王者というだけで、世界的には一般のファンからの知名度が低く、ロペスの強さを目の当たりにしてきた日本のファンからすると信じられないほど無名な王者に甘んじていた。
日本のファンからすると、ロペスの磐石の強さは、若くして生ける伝説と化していたと言っても過言ではないほど。ぴかぴか(新しい)
ロペス自身も自分への不当な低評価には長らく不満を持っており、常々ビッグ・マッチを模索していた。
ストロー級ではライバル不在だったため、1階級上の人気王者マイケル・カルバハルとの対戦を希望するも、ロペスの危険すぎるほどの強さは他団体の王者からは敬遠されがちで、階級が上の王者でさえも対戦にはなかなか首を縦に振らず。
実力に見合わないファイトマネーに甘んじ、ストロー級王座の防衛を続けながら粘り強くチャンスを待つしかなかった。
本来なら焦れてモチベーションが低下しそうな環境下にありながら、生来のプロフェッショナルであるロペスは、普段から節制を忘れず、トレーニングも欠かさず、試合では容赦のない強さを披露する。パンチ
無人の野を行くがごとく防衛を積み重ね、20度目の防衛戦でWBO王者アレックス・サンチェスを5回KOに下してWBO王座も吸収(すぐに返上)。
ここまで全ての試合が圧勝で、はっきり言って1ラウンドすら明確にポイントを失ったことがないのではないかと思われるほどの完璧な強さを見せつける。
WBC王座21度目の防衛戦ではWBA王者ロセンド・アルバレスとの統一戦を1998年3月に敢行。
ストロー級ではどこまでロペスの独走が続くか想像もできなかったが、アルバレスはロペスが初めて迎えると言ってもいい実力伯仲の強者だった。
いつものように慎重に立ち上がったロペスだったが、2回にアルバレスの踏み込み鋭い右をもらってまさかのダウン。
冷静なロペスに珍しくがむしゃらに反撃したものの、アルバレスも打ち負けない。
7回にはバッティングによりロペスのまぶたから出血。
傷が深く、試合はそのままストップされて勝負は負傷判定に持ち込まれる。
ロペスの初敗北濃厚かと思われたが、判定はドローで辛くも不敗記録は維持。
プライドを大いに傷つけられたロペスは、同年11月の再戦での完全決着に意欲満々。
しかし、対するアルバレスは計量で大幅なウエイトオーバーの大失態。
不利を承知しつつ、ロペスはそのまま試合挙行を決断する。
ウエイト面で有利に立つアルバレス相手に大激闘となったが、要所で有効打をヒットさせたロペスが泥臭く12回判定勝利を収める。
これでWBC王座22度目の防衛を果たすとともに、改めてミニマム級最強を証明。手(チョキ)
ジョー・ルイスの25度の防衛記録を完全に射程に捕らえていたのだが、ロペスはビッグ・マッチ実現の可能性を求めてL・フライ級転向への意志を固める。
約1年のブランクを経て、1999年にウィル・グリグスビーの持つIBF世界L・フライ級王座へ挑戦。
スピーディな攻防の末、文句のない12回判定勝利で2階級制覇を達成する。
ラタナポン・ダッチボーイジム、ゾラニ・ペテロと実力者をKOして2度の防衛を果たしたが、ロペスの希望するビッグ・マッチは実現せず。
まだまだ実力十分だったが、若干の体力の衰えを自覚していた完ぺき主義者のロペスは、2002年に王座を返上。
ついに一度も敗れないままの引退となった。

今まで数々の名王者が日本のリングで強さを披露してきたが、ロペスのボクシングの質の高さは別格という感がある。位置情報
非の打ち所のないバランスのいいボクシングスタイルは、未来のファンが見ても舌を巻くだろう。
最軽量級ながらKOシーンも芸術的。
伸びるアッパーの軌道の美しさは、あのエデル・ジョフレをも凌ぐものだと管理人は思う。
精悍なマスクも魅力で、女性ファンにも人気があるとのこと。
強くてかっこいい。るんるん
つくづく完璧なボクサーである。
posted by ティト at 02:29| 岩手 ☀| Comment(14) | TrackBack(1) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月25日

レノックス・ルイス

レノックス・ルイス(英)
WBC世界ヘビー級、統一世界ヘビー級、WBC、IBF世界ヘビー級チャンピオン
ニックネーム:英国の誇り
生年月日:1965.9.2
戦績:41勝32KO2敗1分


英国が誇るヘビー級のスーパーチャンプだ。モータースポーツ
ルイスは、1988年のソウル五輪に出場し(カナダ代表)、米国期待のリディック・ボウにストップ勝ちで見事スーパーヘビー級の金メダルを獲得。
鳴り物入りで1989年にプロデビュー。
ルイスのデビュー当時は無敵のマイク・タイソンが王座に君臨していたため、五輪金メダリストのルイスであっても早期の世界挑戦は考えられず、まずはキャリアを積むことに徹することとなる。
196cmの恵まれた長身を生かした打ち下ろしの右ストレートを武器にKOの山を築き、10戦ほどで早くも頭角を現す。
おりしもタイソンがまさかの番狂わせで王座を失い、ヘビー級が混迷を極めたこともあり、一躍ルイスは次期世界王者候補のホープの1人として脚光を浴びることとなる。ぴかぴか(新しい)
欧州タイトルやナショナルタイトルを手に入れて世界ランクも上位へ上昇。
いよいよ世界に打って出る機会をうかがっていたのだが、その試金石としてタイソンとの激しい打撃戦で名を上げたドノバン“レーザー”ラドックとのWBC次期挑戦者決定戦が1992年に組まれ、実力を試されることになる。
予想は破壊的強打者ラドックがやや有利と言われていたが、2回にルイスの必殺右ストレートがまともにヒットし、ラドックに何もさせないままTKO。
この試合で一気にルイスの評価が高まることとなった。右斜め上
世界挑戦が間近のルイスだったが、アマチュア時代からのライバルであるリディック・ボウがルイスより先に統一世界ヘビー級王座への挑戦権を獲得。
ルイス−ラドック戦の半月後の1992年11月、ホリフィールドを12回判定に下してボウが統一世界ヘビー級の王座に就く。
WBCの指名挑戦権を持つルイスは、当然のようにボウとの対戦を要求したのだが、ボウは苦労して手に入れた王座の初防衛戦に強敵のルイスを指名することに難色を示した。
すったもんだの末にボウはWBC王座を放棄(ゴミ箱にWBCのベルトを捨てるという前代未聞のパフォーマンスが話題になった(笑))。
結果、ルイスはケン・ノートン以来2人目のヘビー級の認定王者となった。
ルイスとボウのどちらが強いのかファンの間では議論の対象となっていたが、当時の一般的な評価はホリフィールドを破ったボウの方が上だったように記憶している。
右の強打以外はやや未熟さも感じられたルイスより、攻守にまとまりのあるボウのバランスを高く買うファンが多かったはず。
ちなみに管理人は、もっさりした動きのボウよりは、イキのいい強打でキビキビ動くルイスのスタイルの方が好みだった。ひらめき
同体格でいずれ劣らぬ実力を持つ両者の対戦は、期待されながら結局実現せず。
幻の好カードとなってしまった。
王者となってからのルイスは、スタミナ不足や打たれもろさを露呈してやや不安定な試合が続き、認定王者のイメージを払拭するようなパフォーマンスは見せられず。
1994年の4度目の防衛戦で伏兵オリバー・マッコールの右ストレートをまともに受け、まさかの2回TKO負けで王座からも転落。
このままでは歴史に残るヘビー級王者にはなれなかっただろうが、“ヒットマン”ハーンズを育て上げたエマヌエル・スチュワードを専属トレーナーに迎えたことが転機となり、ルイスの眠っていた才能が開花。手(チョキ)
ハーンズのようにジャブを有効に使えるようになり、巧みなフットワークの使い方も覚え、バランスのいいボクサー・ファイターへと進化する。
そして約2年半の雌伏を経て、タイトルを取り返すべく、1997年にWBC王者マッコールへ挑戦する。
この試合はマッコールの奇行が目立ち、リング上で背を向けて泣き出すなどしたため(薬物疑惑あり)、ミルズ・レーン主審は2回途中にTKOを宣告。
不可解な試合ながら、結果的には圧勝にてルイスはマッコールへの雪辱を果たすとともに王座を奪回。
初防衛戦ではヘンリー・アキンワンデの執拗なホールドにより5回失格勝ちを収めたものの、すっきりとしない内容。
アンドリュー・ゴロタには初回KOの圧勝でルイスの株が一時的に上がったものの、シャノン・ブリッグスには5回KO勝ちながら危なっかしい試合を演じ、無名のゼリコ・マブロビッチ相手には凡戦の12回判定勝ち。
そんなこんなで今ひとつ実力に見合った評価を得ることができず。
英国人のルイスには何となくローカル王者のイメージが付きまとっていたため、ルイスはボクシングの本場アメリカでのビッグ・マッチの機会をうかがっていた。
そしてついに待望のビッグ・マッチが実現。
WBA、IBF世界ヘビー級王者イベンダー・ホリフィールドとの統一戦である。
1999年3月に注目の3団体統一戦が行われ、積極的に打撃戦を挑むホリフィールドに対し、ルイスは軽快なアウトボクシングを披露。くつ
素晴らしい試合になったが両者決め手を欠き、12回ドローで統一王者の誕生はならず。
当然再戦の運びとなり、同年11月に再び両者の激突となる。
前戦でのアウトボクシングに手応えを感じていたルイスは、この試合はジャブとフットワークを徹底的に駆使。
接近すれば巧みなクリンチというややずる賢いとも思える戦法で確実にポイントを積み重ね、文句のない12回判定勝利。
リディック・ボウを倒して達成するつもりであった3団体統一王者の野望をついに実現する。位置情報
タイソンから王座を奪ったホリフィールドを破ったことでルイスの評価はうなぎ上り。
マイケル・グラント、フランソワ・ボタ、デビッド・トゥアといった難敵も問題にせず防衛を重ね、ヘビー級の絶対王者として君臨。
スチュワード仕込みの安定感抜群のアウトボクシングもすっかり板につき、ルイス時代の到来が確実となっていたが、統一王者となってから4度目の防衛戦で思わぬ落とし穴。
2001年4月、伏兵ハシム・ラクマンとの防衛戦に臨むも、相手を甘く見過ぎてしまい、試合前に映画出演やテレビ出演にかまけて完全に練習不足。
それでも自信満々のルイスは、不用意にロープ際で相手を迎え撃とうとしたところで、ラクマンの渾身の右ストレートをまともに浴びてしまい、リングに大の字。
5回KOの番狂わせで苦労して手に入れた統一王座を手放すこととなる。
次戦でマイク・タイソンとの対決が確実視されていただけに非常に痛い敗戦となった。
ラクマンとは対戦契約時に自分が敗れた場合の再戦特約を盛り込んでいたため、同年11月に即再戦が実現。
今度は慎重に戦ったルイスが4回KOの快勝で王座奪回。
3度目のヘビー級王座獲得となった。ダッシュ(走り出すさま)
2002年の初防衛戦ではルイスが長らく待ち望んでいたマイク・タイソンとの激突が実現する。
前評判でルイス圧倒的有利と言われた試合だったが、その予想通りのルイスの圧勝。
タイソンを完膚なきまでに打ちのめしての8回KO。パンチ
人気者のタイソンとの試合で莫大なファイトマネーを手にし、王者としてやるべきことをやり尽くした感のあったルイスのモチベーションはこの後に急激に低下する。
1年のブランクの後、2003年に強敵ビタリ・クリチコと対戦したルイスは、自分より大きい相手の圧力にやや押され、ダウンを奪われるなど大苦戦。
必死に反撃してクリチコのまぶたを切り裂き、ややラッキーな6回終了TKO勝ち。
納得のいかないクリチコからの再三にわたる再戦要求があったものの、無理に強敵と対戦するモチベーションが既になくなっていたルイスは、2004年に王座を返上して引退を表明。
カムバックの噂も否定し、頑としてリングに上がることはなかった。

最近のボクシング界の傾向でもあるのだが、正しいトレーニングでボクサーの選手寿命は格段に延び、30代になって才能が開花する選手も急増している。グッド(上向き矢印)
ルイスも本当に息の長い選手だった。
そして、歴史に残る名チャンピオンと呼ばれるほど強くなったのも30歳を越えてから。
ボクシングにたらればは禁物だが、ラドックを倒して認定王者になった当時の若きルイスと、タイソンを倒した当時の30代後半のルイスが対戦すれば、管理人は後者が圧勝するのではないかと思っている。
ルイスは、努力に遅すぎることはないということを証明した典型的な選手だ。
正しいトレーニングを続けて進化し続けたルイスと、奔放な私生活に溺れて自ら進化を止めてしまったタイソン。
そんな両者が30代後半に対戦したのだから、結果は如実に表れたということなのだろう。
ルイスのキャリアの軌跡は、捲土重来を期している現在のボクサーにも大いに勇気を与えられるのではないだろうか。るんるん
posted by ティト at 13:22| 岩手 ☀| Comment(5) | TrackBack(0) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月17日

マイク・タイソン

マイク・タイソン(米)
統一世界ヘビー級、WBC世界ヘビー級、WBA世界ヘビー級チャンピオン
ニックネーム:鉄人
生年月日:1966.6.30
戦績:50勝44KO6敗2無効試合


マイク・タイソンを知らないボクシングファンはいないだろう。
2度の来日経験もあり、日本ではボクシングファン以外の知名度も高い。右斜め上
身長180cmに満たないと言われた小柄な体格ながら、歴代最強の破壊力を秘めたダイナマイト・パンチで大男をいとも簡単に吹っ飛ばす。ダッシュ(走り出すさま)
全盛時には宇宙最強とまで称された圧倒的な強さで、個性派揃いのヘビー級でも一際輝きを放った名王者である。

タイソンを宇宙最強の男に作り上げたのがカス・ダマト。
フロイド・パターソンやホセ・トーレスを育て上げた名伯楽だ。
ニューヨークのスラム街であるブルックリンに生まれたタイソンは、少年時代から大人でも手をつけられないほど腕っぷしの強い札付きの不良だったという(笑)。ドコモポイント
荒れていたマイク少年に生きる糧を与えてくれたのがダマト。
少年院上がりのマイク少年の才能を見抜いたダマトは、ほぼ身寄りのない状態だったタイソンを引き取って本格的にボクシングを教え、自分の子供のように愛情を注いだ。
そんなダマトをタイソンは父親のように慕い、忠実にその言葉に耳を傾けた。
それがボクシングの上達を促進することになり、類まれな素質と相まってタイソンはメキメキと強くなっていった。
ダマトは、タイソンを五輪に出場させたかったらしいが、五輪選考会で不本意な敗北を喫してロス五輪への出場はならず。
アマチュアでの成功はあきらめ、1985年にプロデビューすることになる。
ダマトはタイソンを徹底的に実戦で鍛え上げる方針だった。
1ヶ月に1度以上のペースで試合をこなしてタイソンの強さには筋金が入り、圧倒的なパワーを見せ付けて連勝街道まっしぐら。手(チョキ)
タイソンにとって、試合と練習は同じようなもの。
ダマトの代弁者的役割を果たした敏腕トレーナー、ケビン・ルーニーが採用したナンバーフォーメーションによるコンビネーションシステムを実戦の場でも存分に披露。
ルーニーがある組み合わせの番号を口にするだけで、タイソンはその番号に応じたコンビネーションブローをすかさず打ち込む。
かくして、破壊的な強打をコンビネーションで相手に叩き込むというかつてない完璧なヘビー級が完成した。
師であり父親でもあったダマトが1985年11月に亡くなり、タイソンにとっての大きな支柱が失われたが、タイソンは自分を育ててくれたダマトの恩に報いるために必ず世界ヘビー級王者になることを誓った。ぴかぴか(新しい)

19連続KOを含む27連勝25KO無敗の戦績を引っさげ、デビューからわずか2年目の1986年に世界挑戦が実現。
かつてモハメド・アリに引導を渡したこともあるWBC世界ヘビー級王者トレバー・バービックを全く問題にせず、2回TKOの圧勝。
若干20歳という史上最年少のヘビー級王者の誕生となった。位置情報
自信満々のタイソンは、まずは3つに分かれてしまったヘビー級タイトルの統一に取りかかる。
1987年、ジェームズ“ボーンクラッシャー”スミスを6回TKOに下してWBA王座、トニー・タッカーを12回判定に下してIBF王座を吸収し、瞬く間に3団体統一ヘビー級王者の座に就く。
防衛戦では、タイレル・ビッグス、ラリー・ホームズ、トニー・タッブス、マイケル・スピンクスといった当時のヘビー級屈指の実力者をもってしても全く相手にならずに叩きのめされる。パンチ
タイソンのあまりの圧倒的な強さに、多くのファンは熱狂するとともに恐怖すら覚えたものだ。
当時、タイソンはあと100年は負けないとまで言われていたものだが(笑)、ダマト亡き後、頂点を極めた男の商品価値に群がる金目当ての人間の接近を許したあたりから、ファイティング・マシンに狂いが生じ始めた。
生前のダマトから絶対に組んではならないと言いつけられていた敏腕プロモーターのドン・キングとプロモート契約を結び、莫大なファイト・マネーを得られるようになるとともに、今まで経験したことのない派手で優雅な世界も教わり、生活リズムが急変。
ドン・キングの調子のいい言葉にすっかり気を良くしたタイソンには傲慢さが目立つようになり、ダマト亡き後の自分の後見人でもあり、参謀でもあったケビン・ルーニーを口うるさいからと解雇。
私生活のトラブルも抱え、練習にも身が入らなくなる。
そういった状態の中では、20世紀最大の番狂わせと言われた1990年の東京ドームでのジェームズ“バスター”ダグラス戦の敗北は、まさかの出来事ではなく、必然の出来事だったのかもしれない。あせあせ(飛び散る汗)

初敗北を喫するも、まだまだ修正十分な若さもあり、王座奪回に向けて走り始めたタイソンだったが、統一世界ヘビー級王者イベンダー“リアル・ディール”ホリフィールドへの挑戦も決定していた1991年、なんと性犯罪により有罪の判決を受け、王座復帰どころか刑務所へと送られてしまう。ふらふら
このブランクは決定的にタイソンを錆び付かせてしまった。バッド(下向き矢印)
4年のブランクの後に1995年にカムバックしたタイソンだが、往年のコンビネーションはすっかり影を潜め、一発に頼る鈍重なファイターに変貌してしまった。
それでも圧倒的なダイナマイト・パンチは健在で、腰が引けた選手ではタイソンの相手にならず。
カムバックしてわずか半年あまりの1996年3月、ネームバリューのあるタイソンには早くも世界挑戦への機会が訪れる。
かつてKOしたこともある、WBC世界ヘビー級王者フランク・ブルーノを返り討ちの3回TKOに下して王座復帰。
同年9月にはブルース・セルドンに初回KOの圧勝でWBA王座も吸収。
3団体統一王者復活は時間の問題と思われた。
しかし、ここでタイソンの名前に遅れをとらない強者が現れる。
それがイベンダー・ホリフィールドだ。
1996年11月、待ちに待った対戦が実現。
タイソン圧倒的有利が予想された試合だったが、ホリフィールドは今まで恐怖で誰もなしえなかったタイソンとの真っ向勝負を選択する。ひらめき
接近戦でコンビネーションを放つことができなくなっていたタイソンは、徐々にホリフィールドに打ち負け、周知の通り11回TKOの完敗。
翌年の再戦でも途中までは旗色の悪い試合内容。
ホリフィールドの度重なるバッティングに我を忘れてしまったタイソンが物議を醸す噛み付き行為による3回終了失格負け。
この連敗で鉄人タイソンのオーラは完全に消え失せ、カムバックはしたものの試合内容はパッとせず。
しかし何とか勝ち続け、2002年にWBC、IBF世界ヘビー級王者レノックス・ルイスの防衛戦の相手として指名を受ける。
初めて不利の予想で臨んだタイソンだったが、王座復帰に意欲満々。手(グー)
ファンの関心も非常に高く、世界中がこの試合を注目。目
だが現実は厳しく、いいところがないまま8回KOに沈んだ。
浪費のツケで経済的にリングに上がり続けなければならなかったタイソンは、全盛時からは考えられないような衰えぶりをさらけ出しながら戦ったものの、2004年にはダニー・ウィリアムズに4回KO負けで、足の靭帯まで負傷。
負傷箇所の手術をした後、2005年に無名のケビン・マクブライドと復帰戦を行うも、棄権による6回終了TKOの惨敗でついに引退となった。

史上最年少のヘビー級王者となり、史上最強のヘビー級王者とも称されたタイソンだったが、ルーニーと別れた後は坂道を転げ落ちるように下降線をたどった。
ジョー・ルイスの持つ25度の防衛記録を破ることも容易いと思われた宇宙最強の男も、奔放な私生活を制御することができず。
結局、長期政権を築くことはできなかった。
ごく最近、タイソンが麻薬所持で逮捕されたというニュースが飛び込んできた。
事実なら残念で仕方がない。
まあそんなこんなの問題児ではあったが、タイソンが歴史に残る名ボクサーであることは疑いようがない。ひらめき
全盛時の全てを吹き飛ばすようなダイナマイト・パンチには管理人も大興奮したものだ。わーい(嬉しい顔)
誰が何と言おうと次の試合も見たくなるボクサー。るんるん
それがマイク・タイソンなのである。
posted by ティト at 11:51| 岩手 ☁| Comment(20) | TrackBack(0) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月12日

ジェフ・フェネク

ジェフ・フェネク(豪)
IBF世界バンタム級、WBC世界J・フェザー級、WBC世界フェザー級チャンピオン
ニックネーム:豪の突貫ファイター
生年月日:1964.5.28
戦績:40勝17KO4敗1分1無判定試合


強烈な突進力と猛烈な連打で大いにファンを熱狂させたオーストラリア随一の人気王者だ。ひらめき
アマチュア時代からブルファイターぶりで有名だったフェネクは、ロサンゼルス五輪出場後にすぐにプロデビュー。
ボクシングスタイルがプロ向きとの評価は伊達ではなく、短期間にバッタバッタと対戦相手を倒しまくり、早々と世界ランクを獲得。
そして、何とプロデビューからわずか半年後の1985年、IBF世界バンタム級王者新垣諭へ挑戦のチャンスを得る。
日本で唯一のIBF王者新垣を全く問題にせず、9回TKOの圧勝。
7戦全勝全KOのスピード出世での戴冠となった。グッド(上向き矢印)
根っからのファイターであるフェネクは、王者になっても立て続けに試合を行い、2度の判定はあったものの、圧倒的な強さで7連勝。
3度の防衛に成功する。
初防衛戦で新垣を4回TKOの返り討ち、ノンタイトル戦では畑中清詞や辰吉丈一郎と名勝負を繰り広げることになるダニエル・サラゴサに10回判定勝ちした試合が光る。
当初から複数階級制覇に意欲的だったフェネクは、1987年にバンタム級王座を返上してJ・フェザー級へ転向。
トミー・ミラーとのテスト・マッチを12回判定勝利で制したわずか1ヵ月後の1987年5月、2階級制覇を狙ってWBC世界J・フェザー級王者サーマート・パヤカルンと対戦。
ムエタイで名を馳せたハンサム・ボーイのサーマートは、タイでは超のつく人気王者。
タイで行われたこの試合はフェネクにとっては完全アウェーなのだが、強心臓のフェネクにはそんなことは全く関係なし。ダッシュ(走り出すさま)
びっしり埋まった敵意むき出しのタイのファンの目の前でフェネクは圧倒的なパフォーマンスを見せ付ける。
フェネクの暴風雨のようなラッシュが炸裂し、地元の英雄サーマートは失神状態で4回KOに沈んだ。
J・フェザー級王座は、初防衛戦で後に辰吉丈一郎に王座を明け渡すことになるグレグ・リチャードソンを5回TKO、2度目の防衛戦でかつての名王者カルロス・サラテに4回負傷判定ながら明白な勝利で立て続けに防衛に成功。
そして半年も保持せずに王座を返上し、足早にフェザー級へ転向する。
1戦テスト・マッチを挟んだ後、1989年にWBC世界フェザー級王座決定戦のリングに上がるチャンスを得たフェネクは、ビクトル・カジェハスを見事10回TKOに屠って無敗のまま3階級制覇達成。
しかも若干24歳での3階級制覇だから恐れ入る。
ますます勢いに乗るフェネクは、とんとん拍子に3度の防衛を果たしてまたもタイトルを返上。
当然のように4階級制覇を照準にとらえる。
今まで同様、1戦テスト・マッチを挟んだ後、1991年に史上最年少の4階級制覇へのチャレンジ試合が決定。
相手は“ガーナの野生児”WBC世界J・ライト級王者アズマー・ネルソン。
名王者ネルソンが相手ながらフェネクには気後れは全くなく、ネルソンをロープに釘付けにしてひたすらラッシュ。パンチ
ネルソンも激しく応戦して見応えのある打撃戦となったが、終盤はフェネクのパワーでネルソンはタジタジとなり、ダウン寸前。
何とかネルソンも持ちこたえて、試合は白熱したまま試合終了のゴングが鳴った。
管理人もこの試合は生中継で見ていたが、フェネクの優勢は動かしがたいように思えた。
しかし、判定は管理人もびっくりのドロー。たらーっ(汗)
絶好の4階級制覇のチャンスを逸したフェネクのショックは思いのほか大きく、入れ込みすぎた1992年のネルソンの再戦では8回TKOの惨敗で無敗記録もストップ。
坂道を転げ落ちるかのように1993年の次戦では伏兵カルビン・グローブにまさかの7回KO負けで世界戦線から大きく後退。
ブランクを作りながらも、旺盛な闘志で戦い続け、4階級制覇に執念を燃やすフェネクは、1996年にIBFライト級王者フィリップ・ホリデーへの挑戦のチャンスを掴む。
ラストチャンスを自覚して必死にトレーニングに励んだフェネクだが、往年の爆発的なパワーは取り戻せず、2回TKOの玉砕で悲願達成はならず。
そのまま引退と相成った。

エネルギッシュでエキサイティングなボクシングを展開したフェネクには、オーストラリアのみならず日本にも多くの熱狂的なファンがいるようだ。
ちなみに管理人もその一人である。わーい(嬉しい顔)
いかにも負けん気が強そうな表情で、打って打って打ちまくるフェネクのボクシングスタイルは痛快この上ない。るんるん
まさにファンに愛された名王者だろう。
バンタム級からフェザー級にかけて、歴代最強論争には必ずフェネクの名前が登場する。
全盛時の溢れんばかりのパワーは本当に魅力的だ。右斜め上
現在は、第2のフェネクを作るべく、母国オーストラリアでトレーナーとして奮闘。ぴかぴか(新しい)
既に素晴らしい選手を何人も育て上げている。手(チョキ)
今後のフェネクの活躍にも注目だ。
posted by ティト at 00:01| 岩手 ☀| Comment(6) | TrackBack(0) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月07日

柳明祐

柳明祐(韓国)
WBA世界J・フライ級級チャンピオン
ニックネーム:ソナギパンチ
生年月日:1964.1.10
戦績:38勝14KO1敗


勇敢なコリアンファイターの代表格であり、韓国では小さな巨人と賞賛される国民的英雄。グッド(上向き矢印)
カオサイ・ギャラクシーの19度連続防衛のアジア記録に次ぐ17度連続防衛を達成し、通産18度の防衛を果たしたアジアが誇る名王者である。
柳のプロデビューは1982年。
デビュー当初はひ弱さが目立ち、ほとんどの試合が判定までもつれこんでいたが、筋力が増してくるとともに徐々に韓国伝統の力強いファイタースタイルを身に着けていく。
柳のスタイルは、力強い突進とともに、「ソナギ(夕立)」と呼ばれた猛烈なラッシュが特徴。小雨
とにかく圧倒的な手数で相手に打ち返す暇を与えないという攻撃的なボクシングで長期政権を築き上げた。ダッシュ(走り出すさま)
柳の世界初挑戦は1985年。
WBA世界J・フライ級王者ジョーイ・オリボ相手に激しい打撃戦を展開した末に15回判定勝利で21歳の無敗の王者が誕生。
WBC同級には“韓国の虎”張正九が一足早く王者として君臨しており、当時のJ・フライ級は韓国が完全制圧することになった。
張も素晴らしい王者で、柳は何かと張と比較されてきた。
パワーでは張に一歩譲ったものの、手数、タフネス、スタミナでは柳が上で、ファンの評価も柳の方が高かった。
いずれ、両者は韓国黄金時代を支えた名王者だ。
柳は精力的に防衛戦を行い、約6年の間に17連続防衛を果たす。
日本人選手とも数多く戦い、喜友名朝博、小見山カツミ、大鵬健文、徳島尚は柳のソナギパンチに屈した。
カオサイ・ギャラクシーと防衛記録を競っていた柳の快進撃を止めたのが日本の井岡弘樹。
1991年、柳の有利が予想された試合だったが、井岡はスピーディな左ジャブで柳の前進を止め、殊勲の12回判定勝利。
長年守ってきた虎の子のタイトルを失った柳の落胆は非常に大きく、そのまま引退するのではとも噂されていたが、柳は井岡への雪辱をモチベーションに再びリングへ上がることを決意。
屈辱の敗戦から1年後の1992年に再び井岡と対峙し柳は、見るからに気合十分。パンチ
得意のソナギパンチで打って打って打ちまくった柳の気迫に井岡がやや押され、文句のない12回判定で柳の雪辱が果たされた。
まだ若く、それから再び長期政権を築くことも可能と思われた柳だったが、打倒井岡の目標を達成した名王者のリングへのモチベーションは燃え上がらず。
細野雄一を相手に12回判定勝ちで初防衛に成功した後、柳は王者のまま引退する道を選んだ。

小柄な柳は、一見するとそれほど強そうには見えないのだが、王者時代のリング上の柳は、誰をも寄せ付けないオーラが滲み出ていた。
アウトボクサー全盛の現代ボクシングだが、柳のようなブルファイターの試合は本当に面白い。るんるん
最近低迷している韓国ボクシング界だが、日本にとってお隣の国でもあり、柳を彷彿とさせるエキサイティングな王者の誕生が待ち望まれるところだ。
posted by ティト at 22:38| 岩手 ☔| Comment(7) | TrackBack(0) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月05日

パーネル・ウィテカー

パーネル・ウィテカー(米)
統一世界ライト級、IBF世界J・ウエルター級、WBC世界ウエルター級、WBA世界J・ミドル級チャンピオン
ニックネーム:スウィートピー
生年月日:1964.1.2
戦績:40勝17KO4敗1分1無判定試合


ボクシングの最大の魅力は、打ちつ打たれつの打撃戦であると考えるファンがほとんどであろう。どんっ(衝撃)
しかし、ボクサー側からすると、打たせずに打つボクシングこそ理想だと考えているはずである。
パーネル・ウィテカーは、打たせないで打つというボクサーの理想を体現してみせた、小憎らしいほどディフェンス技術に優れた超テクニシャン王者だ(笑)。くつ
ウィテカーのプロデビューは1984年。
抜群のボクシングセンスで勝ち進んだウィテカーの世界初挑戦は1988年。
WBC世界ライト級王者ホセ・ルイス・ラミレス相手に有利に試合を進めたものの、敵地においてウィテカーのディフェンス技術は評価されず、判定は12回判定負け。
しかし、この試合で世界レベルを証明したウィテカーは、1999年にはIBF世界ライト級王者グレグ・ホーゲンへの挑戦のチャンスを得る。
結果はほぼ完封の内容の12回判定勝利で念願の王座獲得。
同年には、初挑戦でタイトルを取り損ねた相手であるホセ・ルイス・ラミレスとWBC世界ライト級タイトルを争い、今度は明白な12回判定勝ちで2つ目のタイトルを獲得。
1990年になると、防衛戦でアズマー・ネルソンの3階級制覇を阻止し、その勢いに乗ってWBA王者ファン・ナサリオとの統一戦を敢行。
試合開始早々にタイミング抜群の左ストレートを決めて意外にも(笑)1回KOの圧勝劇で見事3団体統一王者の座に就くなど、ウィテカー時代の到来を予感させる出色のパフォーマンスを見せる。ぴかぴか(新しい)
ライト級で敵なしのウィテカーは、1992年に統一ライト級王座を返上。
目標を複数階級制覇に定める。
チャンスはすぐに訪れ、1992年にラファエル・ピネダの持つIBF世界J・ウエルター級王座へ挑戦。
文句なしの12回判定で難なく2階級制覇達成。手(チョキ)
J・ウエルター級王座を長く保持するつもりはなく、半年も経たないうちに返上。
足早にウエルター級への転向を図る。
1993年には自分と同タイプのテクニシャンであるWBC世界ウエルター級王者ジェームズ“バディ”マクガートへの挑戦のチャンスを掴み、テクニカルな駆け引きを制してまたも文句なしの12回判定で3階級制覇王者の仲間入りを果たした。グッド(上向き矢印)
一気にビッグ・マッチの主役に躍り出たウィテカーは、初防衛戦の相手として、4階級制覇を賭けるメキシコの英雄、フリオ・セサール・チャベスを指名。
スーパースターを相手に戦前の予想は若干不利とは言われたものの、試合はウィテカーがほぼ自在にコントロール。
判定は不可解な12回ドローとなり、不敗のチャベスに土をつけることはできなかったが、観客のほとんどはウィテカーの完封勝ちと思ったことだろう。
あまりにディフェンシブなスタイルゆえに多くのファンの支持を得ることはできなかったが、ウィテカーを打ち崩せる選手が当時見当たらなかったことは事実。
半身に構え、体を自由自在にひねる特異なスタイルで快調に進撃するウィテカーは、1995年にはWBA世界J・ミドル級王者フリオ・セサール・バスケスをも完封。
かつてない異質な4階級制覇王者の誕生となった。位置情報
小柄なウィテカーは、J・ミドル級王座はすぐに返上してウエルター級王座の防衛に専念。
安全運転で危なげなく勝ち続けるウィテカーの快進撃を誰がストップするかにファンの注目が長らく集まっていたが、ついに待ちに待った期待のホープが現れる。
それが“ゴールデンボーイ”オスカー・デラホーヤだ。
1997年、典型的なヒールとアイドルの対決が実現。
試合はどちらが勝ってもおかしくない接戦となったが、デラホーヤのアグレッシブネスが評価され、僅差の判定でウィテカーは虎の子のタイトルを失うこととなった。
この敗北に対する納得のいかない気持ちを引きずってしまったウィテカーは、以降全く精細を欠いてしまう。
1997年にアンドレイ・ペスチリアフに12回無判定試合の凡戦を演じてブランクを作った後、再起を期して1999年にIBF世界ウエルター級王者フェリックス“ティト”トリニダードに挑戦。
しかし、飛ぶ鳥を落とす勢いのトリニダード相手にKOを免れるのがやっとの明白な12回判定負け。
ブランクで持ち前の防御勘も錆び付き、2001年にカルロス・ボホルケスに4回TKO負けで完全に世界のトップから脱落。
そのまま引退と相成った。

ウィテカーほど現役時代に不人気をかこった王者もいないであろう。
ずば抜けたディフェンス技術をコアなボクシングファンから評価されることはあったが、打撃戦を好む一般のファンの支持を得ることはとうとうできずじまい。たらーっ(汗)
ある意味不運な4階級制覇王者だ。もうやだ〜(悲しい顔)
しかし、ディフェンスの重要性が増している現在、ウィテカーのテクニックは、多くのボクサーにとって大いに参考となる教科書にもなりうるだろう。ひらめき
まあウィテカーのテクニックを模倣することは容易ではないが(笑)。
異質な選手ではあったが、ウィテカーは間違いなく90年代を代表する名選手だったと管理人は断言できるのである。わーい(嬉しい顔)
posted by ティト at 22:39| 岩手 | Comment(8) | TrackBack(0) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月30日

イベンダー・ホリフィールド

イベンダー・ホリフィールド(米)
WBA世界J・ヘビー級、統一世界クルーザー級、統一世界ヘビー級チャンピオン
ニックネーム:リアル・ディール
生年月日:1962.10.19
戦績:39勝26KO8敗2分


数々の激闘を勝ち抜き、今もなお世界中のファンを熱狂させてくれる、まさにリアル・ディール(本物)な男である。手(グー)
ホリフィールドのボクシングは非常にハイグレードだ。右斜め上
パワー、スピード、テクニックの全てが高次元でまとまっており、欠点が見当たらない。
ホリフィールドはアマチュア時代から頭角を現し、ロス五輪ではL・ヘビー級金メダル最有力候補として出場。
しかし、準決勝で圧倒的に試合を有利に進めながら不可解な反則負けで銅メダルに終わる。
不運なアマチュア時代と決別したホリフィールドは、1984年にプロデビュー。
圧倒的な強さで勝ち進んだホリフィールドは、1986年には早くも世界挑戦のチャンスを得る。
WBA世界J・ヘビー級王者ドワイト・ムハマド・カウイと対戦したホリフィールドは、試合終盤にカウイの頑強な反撃に苦しんだものの、何とか15回判定で逃げ切って王座獲得。
1987年にはリッキー・パーキー3回KOをに下してIBFクルーザー級王座を、1988年にはカルロス・デ・レオンを8回TKOに下してWBAクルーザー級王座を立て続けに吸収し、歴史の浅いクルーザー級では史上初となる統一王者となる。手(チョキ)
クルーザー級でやるべきことを終えたホリフィールドは、より大きな名誉を求めてヘビー級へ進出。
当時のヘビー級は、宇宙最強の男とまで呼ばれたマイク・タイソンが絶対王者として君臨していた。
自分より年下のタイソン打倒を最大のモチベーションとして、ホリフィールドは徹底的に自らの体をいじめ抜いた。
最新式のウエートトレーニングで肉体改造に取り組んだホリフィールドの肉体は、ギリシャ彫刻のような肉体美に変貌。スポーツ
ヘビー級で戦える体と軽量級ばりのスピードを武器に、ホリフィールドはヘビー級でも快進撃。
ピンクロン・トーマス、マイケル・ドークス、アレックス・スチュワートといったヘビー級トップクラスを撃破し、タイソンにとって最強の挑戦者としての地位を獲得。
いよいよ両雄激突かという矢先、タイソンは東京ドームでジェームズ・ダグラス相手に世紀の番狂わせでタイトルを失い、黄金カードは惜しくも実現せず。あせあせ(飛び散る汗)
1990年、タイソンを倒した男、ジェームズ“バスター”ダグラスに指名挑戦者として挑んだホリフィールドは、王者に全くつけいる隙を与えない3回KOの圧勝でついに念願のヘビー級王座を獲得。
最強を証明したいホリフィールドは、タイソンとの防衛戦を熱望していたのだが、そのタイソンはなんと性犯罪で有罪の判決を受けて刑務所行きが決定となり、またしても黄金カードは目前で消滅。たらーっ(汗)
ジョージ・フォアマンやラリー・ホームズといった歴代のグレートを下して防衛は重ねたものの、やはりタイソンなき間のかりそめの王者というイメージがホリフィールドにはどうしてもつきまとった。バッド(下向き矢印)
ホリフィールドがどれだけハイグレードなボクシングを披露しようとも、ファンはホリフィールドよりもタイソンの野獣的ボクシングを求めたのである。車椅子
てなわけで史上屈指の不人気実力王者とさえ呼ばれていたホリフィールド。
管理人はホリフィールドのバランスの良いボクシングが大好きで、当時幻のカードとなったホリフィールドvsタイソンの勝敗を友人と予想し合った時は、ホリフィールドの勝利に賭けたものだった(笑)。
ホリフィールドにはずっと世界の頂点に君臨しているイメージがあるが、意外にも長期政権は築いていない。
1992年の4度目の防衛戦で、次世代の王者候補リディック・ボウと激闘を演じたが、若いボウの体力に押し切られて12回判定負けで王座陥落。
1993年にはリディック・ボウに12回判定勝ちで雪辱し、王座奪回を果たしたものの、初防衛戦でマイケル・モーラーに僅差の12回判定負けを喫して史上初のサウスポーヘビー級王者の誕生を許してしまう。
1995年にはリディック・ボウとのラバーマッチを8回TKO負けで落とし、もはやホリフィールドは過去の選手との烙印を押された。
しかし、ここで終わらなかったのがファイティングウォリアーと称される所以。ダッシュ(走り出すさま)
ホリフィールドを再び輝きを放つきっかけを作ったのが終生のライバルであるマイク・タイソンの存在。
1996年、王座に復帰したマイク・タイソンから防衛戦の相手に指名されたホリフィールドは、かつてないほどのモチベーションを持ってトレーニングに没頭。
完璧なコンディションでリングに上がる。
世界中が注目し、ペイパー・ビューの売り上げが史上最高を記録したこのビッグマッチは、周知の通り、圧倒的不利の予想を覆す11回TKOによるホリフィールドの完勝でWBAヘビー級王座獲得。位置情報
タイソンはこの試合の敗北により、以降坂道を転げ落ちるかのようなキャリアを歩むこととなる。
1997年にはマイク・タイソンとの再戦を物議をかもし出す内容ながら3回TKO勝利で制して因縁に終止符を打つと、同年にはIBF王者マイケル・モーラーとの統一戦を9回TKOで制してIBF王座吸収とともに2年前の雪辱を果たす。パンチ
さらなる挑戦を続けるホリフィールドは、1999年にWBC王者レノックス・ルイスとの統一戦でかつて自らが保持していた3団体統一王者を目指す。
結果はドローで惜しくも統一ならず。
同年の再戦ではルイスの徹底的なアウトボクシングの前に決定打を打ち込むことができず、12回判定負けで統一王者の名誉をルイスにさらわれることとなった。
まだまだ戦う意欲満々のホリフィールドは、2000年、レノックス・ルイスが返上したWBAタイトルの決定戦をジョン・ルイスと争い、僅差の12回判定勝利。
モハメド・アリに続く史上2人目の、ヘビー級王座を3度獲得した男となった。グッド(上向き矢印)
ジョン・ルイスには2001年の初防衛戦で僅差の12回判定負けで雪辱を許し、3度目の王座は短命に終わる。
同年末にジョン・ルイスとのラバーマッチに臨んだものの12回ドローの判定で王座奪回ならず。
2002年にはクリス・バードの持つIBF世界ヘビー級王座に挑んだが12回判定負けで4度目のヘビー級王者への野望は達成されず。
2003年にはジェームズ・トニーに9回TKO、2004年にはラリー・ドナルドに12回判定と連敗を喫し、ブランクを作る。
さすがのホリフィールドも引退かと噂されていたが、2006年にジェレミー・バルデス相手に2回TKO勝利を飾りカムバック。
つい先月には強豪フレス・オケンドに12回判定勝利で再び世界挑戦への道も見えてきた。

最近は選手寿命が伸びてきたとはいえ、ホリフィールドほど世界のトップで長期間戦い続けている選手も稀であろう。ひらめき
つまり、それだけ常日頃節制を忘れず、トレーニングを欠かさず、自己管理に厳しく取り組んできた賜物なのだろう。コンビニ
ジョージ・フォアマンの最年長世界奪取記録をも射程に捕らえているホリフィールド。
果たして4度目の王座奪取がなるのか、今後も要注目だ。わーい(嬉しい顔)
posted by ティト at 14:12| 岩手 ☁| Comment(7) | TrackBack(0) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月25日

フリオ・セサール・チャベス

フリオ・セサール・チャベス(メキシコ)
WBC世界J・ライト級、WBA世界ライト級、統一世界ライト級、WBC世界J・ウエルター級、IBF世界J・ウエルター級チャンピオン
ニックネーム:JCスーパースター
生年月日:1962.7.12
戦績:107勝88KO5敗2分


J・C・チャベスを知らないボクシングファンはおそらくいないであろう。
とにかく記録男だ。
デビューから無敗の89連勝の記録、13万2889人という驚異的な観客動員記録、通産37度もの世界戦出場記録。ひらめき
たった一人で複数回もボクシング界の記録に名前が刻まれている。ペン
史上最高のメキシカンと称されるほどの名王者中の名王者であり、母国メキシコでは最高のスポーツヒーローとして尊敬を集めている。

チャベスのプロデビューは1980年。
短期間で頻繁にリングに上がり、連戦連勝の快進撃でホープとしての地位を確立。
デビュー44戦目の1984年に世界挑戦が実現する。
そしてWBC世界J・ライト級王者マリオ・マルチネスを8回TKOに下して初戴冠。
その時点での戦績が44戦無敗40KO。
数々の怪物を生んだメキシコにまた一人怪物王者が生まれたともてはやされたものだったが、当時のチャベスは、そのずば抜けた戦績に見合うだけの華やかなパフォーマンスを見せてくれるわけではなく、どちらかというと地味な選手であった。
パンチ力やスピードに目を見張るものはなく、テクニックもいたって堅実。
全てのファクターにおいて合格点の戦力はあるものの、何か一つ目立って光るものはない。
しかし、その総合力の高さがチャベスを超安定王者たらしめた。グッド(上向き矢印)
J・ライト級王座は9度防衛した後、減量苦によりライト級へ進出。
1987年にエドウィン・ロサリオを11回TKOに屠りWBA世界ライト級王座を獲得。
1度防衛後、WBC同級王者ホセ・ルイス・ラミレスとの統一戦を11回負傷判定で制してライト級王座を統一。
減量苦から開放されたチャベスのベストクラスとも思えるライト級で長期政権も期待されたが、チャベスは足早にJ・ウエルター級へ転向する。
1989年にはWBC世界J・ウエルター級王者ケニー・バイスへの挑戦のチャンスをつかみ、3回TKOの圧勝で無敗のまま3階級制覇を達成。
チャベスのプロモーターのドン・キングは、マイク・タイソンのまさかの敗北によって不在となったボクシング界のスーパースターとしてチャベスを指名。モータースポーツ
期待通りに勝ち進むチャベスは、名実ともに90年代前半のボクシング界の第一人者となった。晴れ
スーパースターには幸運もついてくるもの。
1990年、IBF世界J・ウエルター級王者メルドリック・テイラーとの統一戦に臨んだチャベスは、テイラーのスピード豊かな連打の前に大苦戦。
最終ラウンドを前にポイントでリードを許す。
ついにチャベスの不敗伝説も潰えるのかという雰囲気が大勢を占める中、試合終了直前に奇跡が起こった。
チャベスの怒涛のアタックにつかまったテイラーが試合終了まであとわずかというところでダウン。
カウント5で立ち上がったテイラーだったが、リチャード・スティール主審の呼びかけに反応できず。
ダメージを考慮したスティール主審は迷わず試合をストップ。
試合終了時間はなんと12回2分58秒。
ストップされなければあと2秒でチャベスには初黒星がついていたということ。たらーっ(汗)
スティール主審のストップの早さも取りざたされたが、やはりチャベスの勝負運がテイラーを上回ったということなのだろう。
九死に一生を得たチャベスは、その後も順調に連勝記録を伸ばす。
すでにパウンド・フォー・パウンド最強の評価を不動のものとしていたチャベスの次のターゲットは4階級制覇。
そして1993年、注目の4階級制覇挑戦の試合が決定する。
相手は名うてのテクニシャン、パーネル・ウィテカー。
試合を通して積極的に攻め続けたチャベスだったが、曲者ウィテカーの超絶ディフェンス技術を最後まで崩せず、分の悪いドロー判定。
かろうじて無敗記録は守ったものの、4階級制覇には失敗。
このあたりから鉄人チャベスにも衰えが目立ち始める。
1994年、WBC世界J・ウエルター級王座の13度目の防衛戦で伏兵フランキー・ランドールにまさかの12回判定負けを喫し、デビュー以来の驚異的な連勝記録も89でストップ。
このまま一気に下り坂を転げ落ちるのではないかというファンの懸念もあったが、チャベスは強靭な精神力で復活。
4ヵ月後のランドールとの再戦を8回負傷判定勝ちで制してタイトルを奪回すると、初防衛戦では因縁のメルドリック・テイラーとの再戦も8回TKOで制す。
再び進撃を始めたメキシコの英雄だったが、ボクシングに新旧交代はつきもの。
1996年、バルセロナ五輪金メダリストで次世代のスーパースター候補オスカー・デラホーヤの挑戦を受けたチャベスは、デラホーヤのスピード満点の連打の前になかなか反撃の糸口をつかめないまま、顔面からの激しい出血により4回ドクターストップによるTKO負け。
この試合で一つの時代が終わったと管理人も思ったものだ。
目に見えて衰えが感じられるものの、戦うことをやめないアステカの戦士チャベスは、その後も旺盛にリングに上がり続ける。右斜め上
1998年にはミゲル・アンヘル・ゴンザレス(東京三太)と空位のWBC世界J・ウエルター級王座を争うが、12回引き分けで王座奪回ならず。
同年、今度はオスカー・デラホーヤの持つWBC世界ウエルター級王座に挑戦するも、勢いの差はいかんともしがたく、8回TKOの完敗に退いて4階級制覇はならず。
1999年には無名のウイリー・ワイズによもやの10回判定負けを喫し、いよいよ偉大な選手も引退の潮時かと注目されたが、根っからのファイターのチャベスの闘志は全く衰えない。
2000年、圧倒的不利を予想されながら、自身の集大成のつもりでコンスタンチン・チューの持つWBC世界J・ウエルター級王座に挑戦。
結果は6回TKOの力負けで、さしものチャベスも自らの限界を感じて引退を発表。
1年後に引退を撤回してカムバックしたものの、世界の舞台からは完全に遠ざかり、ブランクを作りながら戦い続ける。
2003年にウイリー・ワイズに2回TKOで雪辱、2004年にはフランキー・ランドールとのラバーマッチを10回判定勝ちで制してチャベスファンを喜ばせる。
2005年5月にアイバン・ロビンソンに10回判定勝ちを収めて本当の(?)引退となった。

アウトボクサー全盛の現代ボクシングにおいて、チャベスは、ファイタースタイルで長期政権を築いた最後の名王者と言ってもいい。パンチ
精悍な顔立ち、強靭な精神力、鉄のアゴと称されたタフネス。
武士を連想させるようなかっこよさだ。位置情報
心技体揃った選手というのはチャベスのような選手を指すのであろう。ぴかぴか(新しい)
posted by ティト at 01:13| 岩手 ☁| Comment(10) | TrackBack(1) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月16日

カオサイ・ギャラクシー

カオサイ・ギャラクシー(タイ)
WBA世界J・バンタム級チャンピオン
ニックネーム:タイの英雄
生年月日:1959.5.15
戦績:47勝41KO1敗


日本でもおなじみの、タイの怪物KOキングである。グッド(上向き矢印)
WBA世界J・バンタム級は、カオサイの一人前の王者が渡辺二郎であり、カオサイの次に王座を獲得したのが鬼塚勝也。
王座在位7年間の間に19度という驚異的な連続防衛を果たした名王者中の名王者がカオサイ・ギャラクシーだ。
カオサイは、他のタイのボクサーの例に漏れず、ムエタイ経験後に国際式へ1980年に転向。
デビュー7戦目に不覚の判定負けを喫するが、群を抜く強打を武器にKOの山を築く。ダッシュ(走り出すさま)
1984年、渡辺二郎が剥奪されたタイトルの王座決定戦に挑むチャンスを得たカオサイは、エウセビオ・エスピナルを6回KOに下してあっさりと王座獲得。
スピードやディフェンス技術に難のあったカオサイのキャリア前半の評価は、王者となってもなお、それほど芳しいものではなかったが、とにかく左強打の威力がハンパではなかった。パンチ
左ボディは体にめり込むほど強烈で、左ストレートはまるでハンマーで殴られているようだと対戦相手に言わしめたものだ。
カオサイが名王者たりえた最大の要因は、決して才能におごらず、謙虚で向上心に満ち溢れていたことだろう。
王者となってからのカオサイは、持ち前の研究熱心さを発揮して一戦ごとに成長し、ディフェンス技術、強打を決めるための工夫、ポイントを引き寄せる試合運び等に格段の進歩を見せていった。
李東春(グレート金山)、松村謙二、中島俊一といった日本でおなじみの選手達も健闘はしたものの、進化するカオサイの厚い壁に跳ね返された。手(パー)
イスラエル・コントレラス、金容江、デビッド・グリマンといった後の世界王者もカオサイの強打の軍門に下り、当時のJ・バンタム級はまさにカオサイの独壇場であった。
1991年、アルマンド・カストロに12回判定勝ちで19度目の防衛を達成すると、カオサイは王者のまま32歳ですっぱりと引退。
王者のまま引退するという目標を達成したカオサイのボクシングキャリアは、栄光に包まれたまま伝説となったのである。ぴかぴか(新しい)

カオサイの19連続防衛はアジア記録でもあり、16KOという内容も出色。
軽量級であるJ・バンタム級で47勝41KO1敗という生涯戦績も驚異的だ。
当然タイの国民的英雄であり、カオサイの試合のテレビ視聴率はほぼ100%だったとのこと。TV
カオサイの試合中は誰も街を歩いていなかったと言われたほどだ。
日本ではそこまでのスポーツヒーローは過去も現在も思い浮かばない。
あのマイク・タイソンも、カオサイのボクシングスタイルが好きで、カオサイの防衛戦はよくビデオ観戦していたらしい。
なお、カオサイの双子の兄であるカオコー・ギャラクシーはWBAバンタム級王座を獲得しており、史上初の双子世界王者と当時世界的に注目されていた。

ちなみにカオサイの奥様はとても美人の日本人である。
ということでカオサイは親日家としても知られている。わーい(嬉しい顔)
日本におけるカオサイの知名度も非常に高く、渡辺二郎vsカオサイ、鬼塚勝也vsカオサイを見てみたかったというファンは多いはずだ。
それだけカオサイは、日本のファンにとっても色々と想像力をかきたててくれる素晴らしい選手ということなのだろう。ひらめき
posted by ティト at 23:51| 岩手 ☁| Comment(9) | TrackBack(0) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月14日

アズマー・ネルソン

アズマー・ネルソン(ガーナ)
WBC世界フェザー級、WBC世界J・ライト級チャンピオン
ニックネーム:ワンダー・ボーイ
生年月日:1958.7.19
戦績:39勝28KO5敗2分


小柄な体ながら、抜群の身体能力を武器に80年代から90年代にかけてフェザー級、J・ライト級で磐石の長期政権を築いた、アフリカンボクサーの代表格である。手(チョキ)
豊かな国とは言えないガーナに生まれたネルソンは、生活の糧を得るためにプロボクサーを志したのだという。
1979年にプロデビューしたネルソンは、持ち前のパワーとスピードを生かしてとんとん拍子に勝ち進んで早々に世界ランクを獲得。
そして1982年、わずか13戦のキャリアながら、WBC世界フェザー級王者サルバドール・サンチェスの防衛戦の相手に指名される。手(グー)
無敗の戦績ながら世界的に全く無名だったネルソンが、飛ぶ鳥を落とす勢いの無敵のサンチェスに対抗できると予想する者はほとんどなし。
しかし、ネルソンはこの試合で抜群のパフォーマンスを見せて世界を驚かすこととなる。
中盤まで劣勢だったものの終盤に挽回、サンチェスを追い回す姿はまさに肉食獣。車椅子
2度ダウンを奪うなど王座交代へあと一歩まで追い込む激闘を演じたが、名王者サンチェスの驚異的な粘りがわずかに勝り、惜しくも最終15回TKO負け。
大魚を逸した形になったが、見るからにハングリー精神に溢れた野生児のギラギラしたファイトぶりにネルソン株は急上昇。右斜め上
敗れてなお、ワンダーボーイ(驚くべき新鋭)と称されたものだ。
同世代のサンチェスはネルソンにとっては立ちはだかる大きな壁だったのだが、なんとサンチェスはネルソンとの防衛戦後に不慮の事故で急逝。車(セダン)
結果的に、サンチェスが本来築くはずだったのかもしれない長期安定政権はネルソンが引き継ぐこととなる。
1984年、ネルソンは、ピークを越えたKOキングウィルフレド・ゴメスを11回KOに下してWBC世界フェザー級王座を獲得。
向かうところ敵なしの勢いで6度の防衛に成功すると、フェザー級王座を返上してJ・ライト級へ進出。
1988年、マリオ・マルチネスと空位のWBC世界J・ライト級王座を争い、12回判定勝ちで2階級制覇達成。
J・ライト級でもネルソンの強さは郡を抜いており、まさに無人の野を行く勢い。ダッシュ(走り出すさま)
ハングリー精神の塊ネルソンは、次のターゲットを3階級制覇に定める。
チャンスは意外に早く訪れ、1990年、J・ライト級王座を保持したままパーネル・ウィテカーの持つWBC世界ライト級への挑戦が決定。
試合では精力的にウィテカーを追い回したものの、ディフェンスの超達人をついに崩すことができずに12回判定負け。
J・ライト級王座はその後も保持し続けるのだが、1991年に行われた6度目の防衛戦で強敵ジェフ・フェネクと大激戦を演じる。どんっ(衝撃)
4階級制覇のかかったフェネクの気合十分のラッシュ戦法の前にネルソンはプロ入りして初めてと言ってもいいほどの守勢を強いられる。
ギラギラした目つきで迫ってくるフェネクに、かつてサンチェスに挑んだ頃の自分を重ね合わせながら戦っていたのかもしれない。ひらめき
管理人もこの試合を見たが、試合の大部分をロープ際で戦わされたネルソンは、果敢に鋭いパンチを放つもののやはり見栄えは悪く、白熱した打撃戦ではあったがフェネックの勝利は動かしがたいように思えた。
しかし、判定は三者三様のドロー。
疑惑の判定とまで言われてプライドを傷つけられたネルソンは、ふんどしを締め直して翌年のフェネックとの再戦に臨んだ。
試合前の予想は、第1戦の内容やフェネクの若さ等が評価されたのか、圧倒的にフェネク有利。
しかし、この予想に反発するかのように試合は8回TKOでネルソンの圧勝。パンチ
野生児フェネクの4階級制覇の野望は、元祖野生児ネルソンの強烈な意地の前に砕け散ることとなった。
年齢相応の衰えを見せないネルソンの防衛回数は10度を数えたが、1994年の11度目の防衛戦で伏兵ジェシー・ジェームス・レイハとの再戦に敗れてついに虎の子のタイトルを失う。
引退がちらついてもおかしくない年齢的なこともあり、並の選手であればここで集中力がプツンと途切れるものなのだろうが、やはりネルソンは並の選手ではなかった。
1995年にガブリエル・ルエラスの持つWBC世界J・ライト級王座に挑んだネルソンは、5回TKO勝利で見事王座奪回。
翌年の初防衛戦ではレイハに6回TKOで雪辱。
フェネク戦同様、ライバル相手のここぞの集中力はさすが。グッド(上向き矢印)
しかし、さすがのネルソンも40歳を間近に控えて抜群の身体能力にも衰えが見受けられ、1997年の2度目の防衛戦で強敵ヘナロ・エルナンデスの技巧の前に12回判定負けを喫して王座陥落。
1998年に宿敵レイハと4度目の対決に臨み、12回判定負けを喫したの試合を最後に引退となった。

最近はアフリカンボクサーの活躍が目立ってきたが、一昔前まではやはりボクシングの世界では珍しい存在だった。
ネルソンの活躍は、多くのアフリカ出身の後輩ボクサーに勇気を与えたはず。ぴかぴか(新しい)
小柄ながら筋骨隆々の体全体がバネのように躍動するネルソンのエキサイティングなボクシングは、まさに野生児と呼ぶに相応しい。足
約15年もの間、世界のトップに君臨し続けた息の長い名王者だ。
posted by ティト at 20:18| 岩手 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月08日

サルバドール・サンチェス

サルバドール・サンチェス(メキシコ)
WBC世界フェザー級チャンピオン
ニックネーム:天国のチャンピオン
生年月日:1959.1.26
戦績:44勝32KO1敗1分


あどけない童顔に似合わぬ闘争心を武器に数々の激闘を勝ち抜いたメキシコ史上屈指の人気王者である。ひらめき
サンチェスはアマチュアで14戦全勝全KOの戦績を引っさげて1975年に16歳でプロデビュー。
当初はバンタム級で戦い、順調に勝ち星を重ねていたが、1977年にメキシコ・バンタム級タイトルに挑み、アントニオ・ベセラに12回判定負けで初の挫折。
翌年にはノンタイトル戦でファン・エスコバルに分の悪いドローで評価を下げてしまう。
パンチを当てる絶妙な勘に非凡なセンスは感じさせたものの、ずば抜けた強打も目を見張るスピードもなく、見栄えのしないカウンター戦法を得意としていたサンチェスは、どちらかというと地味な存在だった。
米国を主戦場にして地道に勝ち星を重ねて世界ランクを手に入れたサンチェスの世界初挑戦は1980年。
WBC世界フェザー級王座に挑んだサンチェスは、王者ダニー・ロペスを見事13回TKOに下して若干21歳で世界奪取。手(チョキ)
未熟さも見受けられる若きチャンピオンに楽な防衛戦はなく、毎回終盤まで試合がもつれる激闘続き。
しかし、旺盛なファイティングスピリットで激闘を乗り切るサンチェスの人気と実力は急上昇。グッド(上向き矢印)
サンチェスの評価が決定的に高まったのは6度目の防衛戦。
相手は1階級下のJ・フェザー級王者ながら、驚異的なKO率を誇る怪物ウィルフレド・ゴメス。
不利の予想を立てられ、負けじ魂に火のついていたサンチェスは、8回KOの圧勝でプエルトリコのKOキングを一蹴。パンチ
相手が強ければ強いほどに燃えるサンチェスのベストバウトとも言えるKO劇だった。
強敵ゴメスに圧勝したサンチェスだったが、その後はまた激闘続き(笑)。
しかし確実に防衛を重ね、その強さに筋金が入ってきた若き王者サンチェスには長期政権が期待されていた。右斜め上
しかし、好事魔多しとはこのことなのだろう。
1982年、後の名王者アズマー・ネルソンの挑戦を苦しみながら15回TKOで退け、9度目の防衛に成功したサンチェスに突然の不運が襲い掛かる。
1982年8月13日、サンチェスが運転する愛車のポルシェ928が交通事故により大破。
そして、愛車とともにサンチェスまでも帰らぬ人となってしまった。
ネルソン戦から22日後の出来事。
輝かしい前途が開けていたであろう23歳の若者のあまりにも残念な最後となった。
日本の大場政夫とダブる悲運の名王者だ。
突然の悲報にメキシコ中が大きな悲しみに包まれたことは言うまでもない。

サンチェスはずば抜けた身体能力の持ち主だったらしく、ラウンド終了後のインターバルのうち、わずか40秒で脈拍が正常に戻る驚異の回復力を備えていたとのこと。猫
試合終盤で、2段、3段ロケットのように炸裂する爆発力の源は、童顔からは想像できない並外れた強靭な肉体にあったのだろう。
まさに太く短くの人生だったが、その弾けんばかりの煌きは、多くの後輩ボクサーに影響を与えるほど大きいものだった。
ちなみにフリオ・セサール・チャベスの若き日のアイドルはサンチェスだったらしい。
今も多くの若きメキシカンがサンチェスに憧れてボクサーを志すという。わーい(嬉しい顔)
サルバドール・サンチェスはまさに永遠のチャンピオンなのである。ぴかぴか(新しい)
posted by ティト at 12:56| 岩手 ☔| Comment(3) | TrackBack(0) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月06日

トーマス・ハーンズ

トーマス・ハーンズ(米)
WBA世界ウエルター級、WBC世界J・ミドル級、WBC世界ミドル級、WBO世界S・ミドル級、WBC世界L・ヘビー級チャンピオン、WBA世界L・ヘビー級チャンピオン
ニックネーム:ヒットマン
生年月日:1958.10.18
戦績:61勝48KO5敗1分


怪物と呼ばれた選手は数多くおれど、トーマス“ヒットマン”ハーンズほど怪物の称号が相応しいボクサーはいないだろう。ドコモポイント
身長188cm、リーチ2m。
まず体格が反則だ(笑)。
ヘビー級並みのフレームを持った選手がウエルター級で戦うのだから相手にとっては脅威だろう。あせあせ(飛び散る汗)
風貌も怪物的。
漫画「はじめの一歩」に登場する間柴をイメージしてもらえばいいだろう。
ターミネーターの骨格のような痩身にギョロッと見開いた血走った目。
向き合っただけで震え上がりそう。がく〜(落胆した顔)
そして何より、その風貌通りの圧倒的な強さに多くのファンは熱狂するとともに恐怖さえ覚えるのである。
レナード、ハグラー、デュランといったライバル達としのぎを削りながら、驚異の5階級制覇を達成。位置情報
黄金の80年代の主役の一人として大いにボクシング界を盛り上げた功労者でもある。

プロデビュー前のハーンズは、有名なアマチュアボクサーではあったものの、非力でやせっぽちなアウトボクサーの域を出なかった。
プロの世界王者を夢見ていたハーンズは、プロへ転向するにあたってこのままではいけないと一念発起。
徹底的なウエイトトレーニングで肉体改造に取り組んだ。手(グー)
その結果、無駄な贅肉の一切ない、かつてないほど完璧なウエルター級が誕生。手(チョキ)
完璧な肉体を持つハーンズを名ボクサーに鍛え上げたのが、後に名トレーナーと呼ばれるエマヌエル・スチュワード。
デトロイトのクロンク・ジムにおいてハーンズとスチュワードの二人三脚は始まった。右斜め上
スチュワードは、デトロイトのスーパースターであるジョー・ルイスやシュガー・レイロビンソンのボクシングスタイル、いわゆるデトロイトスタイルをより進化させた形でハーンズに叩き込んだ。
左手をダラリと下げた状態から鞭のようにしなる左ジャブ(フリッカー・ジャブ)と打ち下ろしの右ストレート(チョッピング・ライト)という必殺のパターンを構築。
特にハーンズの代名詞ともなるフリッカー・ジャブは、射程距離、スピード、威力の全てにおいて惚れ惚れするような素晴らしさ。ぴかぴか(新しい)
管理人はハーンズ以上のジャブを放つ選手をいまだかつて見たことがない。exclamation×2
さらに、圧倒的な攻撃力に加えてフットワーク、ボディワークも軽快そのもの。
懐の深さを生かしたディフェンス技術にも優れ、一見弱点のないパーフェクトボクサーとしてハーンズはのし上がっていくこととなる。
「デトロイト・モーターシティ・コブラ」のニックネームで売り出したハーンズは、1977年のプロデビュー後はKOの山を築きながら連戦連勝。
1979年には、“浪速のロッキー”赤井英和を打ち砕いたブルース・カリー、デビュー3戦目の世界最速奪取記録を持つセンサック・ムアンスリンといった日本でも著名な選手を全く問題にせずに打ち倒し、1980年にはアンヘル・エスパダ、エディ・ガソといった元王者を完膚なきまでに叩きのめして世界への挑戦権を獲得。
同年8月、満を持して世界タイトルに挑戦することになったが、相手はアゴ割りパンチで有名な破壊的強打者、WBA世界ウエルター級王者“ジョー・クラッシャー”ホセ・ピピノ・クエバス。
前評判の非常に高いハーンズが、18歳で世界を制したこともある早熟の天才強打者クエバスと激突するということで世界中が注目したが、試合はあっけないほどのハーンズの圧勝。パンチ
管理人もこの試合は見たが、クエバスが全く手も足も出ずわずか2回でKOされたことに驚くとともに、とんでもない怪物王者が誕生したとワクワクしたものだった。るんるん
圧倒的強さを誇るハーンズの評価は、ウエルター級歴代最強と称えられるほどうなぎのぼり。グッド(上向き矢印)
立て続けに3度王座を圧勝防衛したハーンズだったが、同世代、同階級には目の上のたんこぶがいた。
それがWBC世界ウエルター級王者シュガー・レイ・レナードである。
お互い自分の実力に絶対の自信を持つ者同士、1981年9月に統一戦は当然のことのように実現する。
戦前の予想は、ここまで全試合圧勝の怪物ハーンズが有利と言われていた。
注目のゴングが鳴ると、大方の予想通りハーンズのペースで試合が進んで行ったのだが、周知の通り終盤の大逆転でレナードの14回KO勝利。
パーフェクトだと思われていたハーンズには、アゴのモロさという唯一の弱点があったのだ。
プライドをズタズタにされたハーンズだったが、持ち前の負けん気でレナードとの再戦へ向けて走り始める。
レナードと同様、次々に世界タイトルをコレクションすることになるハーンズは、1982年にWBC世界J・ミドル級王者ウィルフレド・ベニテスに15回判定勝利でまず2階級制覇達成。
ロベルト・デュランを木っ端微塵の2回KOに屠るなど、とんとん拍子に3度防衛。
その勢いを駆って1985年にはJ・ミドル級王座を保持したまま統一世界ミドル級王者“マーベラス”マービン・ハグラーに挑戦する。
この試合は物凄かった。ひらめき
歴代最高クラスの攻撃力を持つ者同士の正面衝突に管理人も大興奮。犬
3回にものの見事に倒されたハーンズだったが、管理人の中ではハーンズの評価は全く下がらず。
勝ちっぷりも負けっぷりも素晴らしいハーンズを管理人は大好きだ。わーい(嬉しい顔)
敗北のショックをいつまでも引きずらないのもハーンズの長所で、その後もハーンズの快進撃は続く。
1986年にJ・ミドル級王座の4度目の防衛戦をこなした後、ノンタイトル戦を1戦挟み、1987年3月にはいきなりデニス・アンドリュースの持つWBC世界L・ヘビー級に挑戦。
そして見事10回TKO勝利を収めて3階級制覇達成。
アンドリュース戦から7ヵ月後、今度はファン・ドミンゴ・ロルダンとWBC世界ミドル級王座決定戦を行い、4回KOの圧勝で楽々と4階級制覇を達成。
体格に恵まれていたハーンズは、無差別級のごとく戦うことができるボクサーだった。on
ミドル級王座は初防衛戦で伏兵アイラン・バークレーに弱点の打たれもろさを突かれてまさかの3回TKO負けで失ったが、全くめげないハーンズは、1988年11月に今度は5階級制覇を狙って新設されたWBO世界S・ミドル級王座決定戦に臨む。
大記録を前に若干緊張したのか、格下のジェームス・キンチェン相手にややもたついたものの、文句のない12回判定勝利で驚異の5階級制覇達成となった。位置情報
レナードとハーンズがほぼ同時期に5階級制覇を成しとげたのはやはり運命だろうか。exclamation&question
まさに永遠のライバル関係だ。
多くの栄光を得たハーンズだったが、最終目標はやはりレナードへの雪辱。
初対戦から7年9ヵ月後の1989年6月、ついに両者のリマッチは実現する。
試合は、モチベーションで上回ったハーンズが、レナードから2度のダウンを奪うなど優勢裡に試合を終えて雪辱濃厚と思われたのだが、なんと判定はドロー。
試合後にハーンズは「俺が勝者だ」と叫んだものだ。ダッシュ(走り出すさま)
なにはともあれ、最大の目標を達成した(笑)ハーンズ。
普通の選手であれば達成感の後には多少なりともファイトへのモチベーションが衰えがちなのだろうが、それが全く感じられないのが彼の凄いところ。
1991年にはバージル・ヒルのWBA世界L・ヘビー級王座を攻略して再び世界の檜舞台に踊り出る。
1992年の初防衛戦ではレナードとともに雪辱の機会を狙っていたバークレーを指名。
今度はハーンズが勝つだろうという予想に反して、結果はバークレーの明白な判定勝ち。
曲者バークレーとは相性がよくなかったようだ。
年齢を重ねたハーンズだが、バークレー戦後もインターバルは空けながらもリングには上がり続ける。
そして、なんとまだ引退を発表していないのだ。あせあせ(飛び散る汗)
ちなみに今年の2月に試合を行い、10回TKO勝利を収めたとのこと。
もうすぐ50歳を迎えようかというヒットマンだが、ファイティング・スピリットはいまだ健在ということだろうね。ひらめき

思えばハーンズほどファンを楽しませた選手もいないであろう。
クエバスを倒した時の、怪物王者誕生の圧倒的なインパクト。
レナード、デュラン、ハグラーといったライバル達との激突。どんっ(衝撃)
勝っても負けても衝撃的な試合の数々はファンにとってはいつまでも忘れることができない。
ファンを楽しませることがプロ選手の本分であるならば、ハーンズはまさにプロ中のプロ。exclamation×2
そして、生ける伝説は、今もなお戦い続けているのである。ぴかぴか(新しい)
posted by ティト at 19:42| 岩手 ☀| Comment(5) | TrackBack(1) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月29日

ウィルフレド・ベニテス

ウィルフレド・ベニテス(米)
WBA世界J・ウエルター級、WBC世界ウエルター級、WBC世界J・ミドル級チャンピオン
ニックネーム:ディフェンス・マスター
生年月日:1958.9.12
戦績:53勝28KO8敗1分


エイブ・アッテルが長らく持っていた17歳8ヶ月という最年少の世界王座獲得記録を75年ぶりに塗り替えた早熟の天才ボクサーが“怪童”ウィルフレド・ベニテスである。
ベニテスは幼少時代から父親グレゴリオの徹底的な英才教育を受けて10代前半から頭角を現し、アマ戦績は123勝6敗の好成績。
そして15歳という若さで1973年にプロデビューする。
若いながらもしっかりとしたボクシング技術を備えていたベニテスは破竹の勢いで連戦連勝。右斜め上
プロのリングでもベニテスのボクシングセンスはずば抜けており、特に柔らかいボディワークを生かしたディフェンス技術に優れていた。猫
1976年には時期尚早と言われながら世界挑戦も実現。
相手はWBA世界J・ウエルター級王者アントニオ・セルバンテス。
ピークを過ぎたとはいえ、名王者セルバンテス相手ではさすがに荷が重いと思われたが、試合はスピードで上回ったベニテスの明白な判定勝利。
17歳6ヶ月という驚異のスピード出世で王座奪取となった。位置情報
天才少年王者の前途は洋々と開けているように思われたが、若くして頂点を極めてしまったベニテスの心の中を慢心が蝕むようになる。
練習を横着しがちになり、奔放な私生活も制御できず。たらーっ(汗)
それでも類まれなボクシングセンスゆえに勝ち続ける。
J・ウエルター級王座は2度防衛後に防衛戦不履行により剥奪。
それでもウエルター級に転向して順調に勝ち進んだベニテスは、1979年にカルロス・パロミノの持つWBC世界ウエルター級王座へ挑み、15回判定勝ちであっさりと2階級制覇達成。
ちなみに20歳4ヶ月の2階級制覇も最年少記録。手(チョキ)
この大事な試合のために費やしたトレーニングの日数はわずか2週間程度だったという。
おそるべき才能のなせる業だ。ひらめき
ベニテスは短時間で最大のトレーニング効果を得る術を知っていたということなのだろう。
そんな天才にも挫折を味わう日が来る。
1979年11月の2度目の防衛戦で迎えた相手が五輪王者のシュガー・レイ・レナード。
素晴らしい技術戦になったが、ベニテスのスピードをさらに上回るスピードスター、レナードのハイテンポなボクシングが徐々に試合を支配。
最終15回についに力尽きたベニテスが初めての敗北を喫する。
ちなみにこの試合でのベニテスのトレーニング期間は10日足らずとのこと。
天才同士の戦いは努力する天才と呼ばれたレナードに軍配が上がった。
とはいえ、管理人はこの試合を見たが、ベニテスのパフォーマンスも非常に素晴らしいと思った。
ディフェンス・マスターと称される勘の鋭いディフェンス技術に驚いたものだ。
かくしてJ・ウエルター級に続きウエルター級王座も短命に終わるも、ベニテスは次の目標を3階級制覇に定める。
そして1981年、モーリス・ホープを12回KOに下し、WBC世界J・ミドル級王座を奪取。
22歳8ヶ月のこれまた最年少での3階級制覇達成となった。グッド(上向き矢印)
2度目の防衛戦ではロベルト・デュランの3階級制覇を阻むなど、怪童の面目躍如のパフォーマンスも魅せたものの、この王座も結果的に短命に終わる。
1982年、3度目の防衛戦で強敵“ヒットマン”トーマス・ハーンズと対戦した試合は、持ち前のディフェンス技術でKOこそ免れたものの、明白な判定負けで王座陥落。
この敗北でベニテスの集中力は完全に途切れてしまう。
ハーンズ戦以降の戦績が9勝6敗。
ディフェンス・マスターの面影なく打ちのめされる試合が続き、1990年に引退となった。

素晴らしい最年少記録を持つベニテスだが、同時期に活躍したレナード、ハーンズ、ハグラー、デュランらと比べると今ひとつブレークしきれなかった印象がある。
時代は同時期に複数の天才を生み、競わせたのである。
早熟と早い凋落。右斜め上右斜め下
果たしてベニテスは類まれな才能を完全に発揮できたのであろうか。
最年少三冠王者の名がこれからもギネスブックに記録され続けることはおそらく間違いないだろう。ペン
しかし、記録とは関係なく、ベニテスを紛れもなく歴史に残る名王者と呼ぶことに管理人は何のためらいもない。exclamation×2
太く短く、眩いばかりの煌きを魅せてくれたウィルフレド・ベニテスの名は、黄金の80年代に彩を添えてくれるのである。ぴかぴか(新しい)
posted by ティト at 17:57| 岩手 ☔| Comment(12) | TrackBack(0) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月22日

ウィルフレド・ゴメス

ウィルフレド・ゴメス(プエルトリコ)
WBC世界J・フェザー級、WBC世界フェザー級、WBA世界J・ライト級チャンピオン
ニックネーム:KOキング
生年月日:1956.10.26
戦績:43勝41KO3敗1分


プエルトリカンボクサーというと強打者揃いのイメージがあるが、その中でも破格の強打を誇ったKOパンチャーがウィルフレド・ゴメスだ。パンチ
ゴメスは1974年に行われたアマチュアの第1回世界選手権にて全試合KOの圧倒的な強さで金メダルを獲得。
同年に鳴り物入りでプロデビューしたものの、デビュー戦は入れ込みすぎてまさかの引き分け。
一部で期待外れとも言われたが、ゴメスはやはり只者ではなかった。
2戦目以降、強打者の本領をいかんなく発揮したゴメスは、立ちふさがる相手をバッタバッタと倒しまくり、連続KOの快進撃。ダッシュ(走り出すさま)
圧倒的な戦績を引っさげて1977年に地元での世界挑戦が実現。
タフネスが売り物のWBC世界J・フェザー級チャンピオン廉東均を12回KOに屠る見事な王座奪取劇。
この時点の戦績が20勝20KO1分け。
怪物王者の誕生にプエルトリコのファンは大いに盛り上がったが、ゴメスの凄さはまだまだそんなものではなかった。手(グー)
防衛戦でも挑戦者を全く相手にせず怒涛の連続KO防衛。
2度目の防衛戦でKO仕掛け人ロイヤル小林を3回KO、6度目の防衛戦でバンタム級の怪物強打者カルロス・サラテの挑戦を5回KOでねじ伏せた試合が光る。ひらめき
ロイヤル小林戦は日本のファンにも鮮烈な印象を与えたはず。
ゴメスのコンパクトな左フックが軽くヒットしたと思った瞬間、小林は崩れ落ち、立ち上がることができなかった。
何気なく出したと思えるようなパンチでさえも一打必倒の凄まじい切れ味を秘めるゴメスの恐るべき強打者ぶりに驚いたものだ。
アレクシス・アルゲリョ、エウセビオ・ペドロサ、そしてゴメスと超一流王者に長らく世界への道を阻まれていた小林は不運としか言いようがない。
かくして圧倒的に防衛を重ね、連続KO防衛記録も13度を数えたゴメスの次の照準はフェザー級制圧に向けられた。
そして1981年、J・フェザー級王座を保持しながらフェザー級王座への挑戦が実現する。
相手はWBC世界フェザー級王者サルバドール・サンチェス。
下馬評は1階級下の王者ゴメスがやや有利。
ゴメス自身も自信満々で望んだタイトルマッチだったが、結果は意外にも8回KOでサンチェスの完勝。
かつて自らがカルロス・サラテに見せつけたように、1階級のパワー差は思っていた以上に大きかったのだ。
挫折を味わったゴメスだが、気を取り直してJ・フェザー級王座をさらに防衛。
1982年までに17連続KO防衛というとてつもない記録を樹立して王座を返上。グッド(上向き矢印)
再びフェザー級制覇へ向けて動き出したゴメスは、1984年、ファン・ラポルテを12回判定で下し、WBC世界フェザー級王座を奪取。
ついに念願の2階級制覇を達成した。
ちなみにこのラポルテ戦が初めての判定勝利というのだから恐れ入る。あせあせ(飛び散る汗)
フェザー級王座は初防衛戦でガーナの野生児アズマー・ネルソンに11回にものの見事に倒されて短命に終わったが、1985年には3階級制覇を狙ってWBA世界J・ライト級王者ロッキー・ロックリッジに挑戦。
そして15回判定勝利で見事トリプルクラウンを達成。
J・ライト級王座も初防衛戦でアルフレッド・ライネに9回TKO負けを喫して防衛することはできなかったのだが、“3階級制覇のKOキング”ウィルフレド・ゴメスの名は世界に轟いた。るんるん
力の衰えを悟ったゴメスは、その後、1988年に1試合を行っただけで潔く引退することになった。

ボクシング界の記録の中でも、このゴメスの17回連続KO防衛の記録は、破ることが極めて困難なものの一つと言われている。位置情報
記録は破られるためにあるとは言われるが、果たしてゴメスの記録を破ることができる王者は現れるのだろうか?
ゴメスの並外れた強打は今も多くのファンの語り草だ。
ウィルフレド・バスケス、フェリックス・トリニダード、ミゲール・コットらにとっても、母国の英雄ゴメスは少年時代のアイドルだったことだろう。ぴかぴか(新しい)
posted by ティト at 12:48| 岩手 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月20日

シュガー・レイ・レナード

シュガー・レイ・レナード(米)
WBC世界ウエルター級、統一世界ウエルター級、WBA世界J・ミドル級、統一世界ミドル級、WBC世界S・ミドル級、WBC世界L・ヘビー級チャンピオン
ニックネーム:スーパー・エクスプレス
生年月日:1956.5.17
戦績:36勝26KO3敗1分


名王者と呼ばれる選手の中にあっても、スーパースターと呼ばれる選手はそれほどいないはずだ。ひらめき
すぐに思い浮かぶのはジョン・L・サリバン、ジャック・デンプシー、ジョー・ルイス、シュガー・レイ・ロビンソン、ロッキー・マルシアノ、モハメド・アリあたりだろうか。
そうそうたる各時代のスーパースターだ。
そして彼ら歴代のグレートの中にまぎれもなく割って入る1980年代のスーパースターがシュガー・レイ・レナードであることに異論のある者はいないであろう。右斜め上
ヘビー級以外では、同じ「シュガー」の愛称を持つロビンソン以来のスーパースターでもある。

レナードは前人未到の5階級制覇(現在の記録はオスカー・デラホーヤの6階級制覇)を達成し、天才ボクサーの名を欲しいままにした凄い男である。るんるん
レナードのボクシング人生はまさに栄光に包まれたものだ。
アマチュア時代からずば抜けたセンスで頭角を現していたレナードは、1976年のモントリオール五輪で期待通りの金メダルを獲得。手(チョキ)
既にプロの世界王者よりも強いと言われたほどの煌きを魅せていた。ぴかぴか(新しい)
1977年に鳴り物入りでプロデビューを果たしたレナードは、すぐにでも世界戦をと期待するファンの声を背に受けながらも、じっくりとキャリアを積む慎重さを持っていた。
頻繁に試合をこなして自信と実力を増したレナードは、デビュー26戦目の1979年に怪童と呼ばれた天才王者ウィルフレド・ベニテスの持つWBC世界ウエルター級王座に挑戦。
実力派王者ベニテスが相手ということで苦戦も予想されたが、レナードは持ち前の抜群のハンドスピードを生かして15回KOで颯爽と王座を奪取。
前途洋々の素晴らしい無敗王者の誕生にファンも大熱狂。
デビューから3年足らずの世界奪取は普通に考えれば早い出世なのだが、レナードの場合は満を持した世界奪取と感じさせたものだ。
得意絶頂だったレナードだが、思わぬ挫折も味わった。
1980年、2度目の防衛戦でライト級上がりのロベルト・デュランに不覚を取り、まさかの判定負け。
相手を侮ってしまったことを反省したレナードの以降の試合ぶりには全く隙が見られなくなった。
デュランには3ヵ月後の再戦では圧倒的なスピード差を見せつけ、巧みなヒット&アウェーで寄せ付けず。
レナードの速すぎるフットワークに対応できずにいらついたデュランは、8回に「ノ・マス(もう十分だ)」と捨て台詞を吐き、世界戦では前代未聞の試合放棄をしてしまった。
かくして栄光を取り戻したレナードは、立ちふさがるライバルと名勝負を繰り広げながら名王者への道を突き進んで行く。ダッシュ(走り出すさま)
1981年にはウエルター級王座を保持しながらアユブ・カルレの持つWBA世界J・ミドル級王座に挑み、9回KO勝利で2階級制覇達成。
J・ミドル級王座は返上し、同年には宿命のライバルとも言うべきWBA世界ウエルター級王者トーマス“ヒットマン”ハーンズとの統一戦を敢行。
レナード以上の高評価を得ていた長身の怪物ハーンズ相手に苦戦を強いられたが、終盤のラッシュで一気に逆転。
ハーンズの打たれもろさの弱点を突き、14回KO勝利でウエルター級王座を統一。
しかしその後にボクサー生命に関わる重大なアクシデントが発生。
なんと網膜はく離を発症してしまったのだ。ふらふら
引退を発表し、リングを離れることを余儀なくされたレナードだったが、練習は常に欠かさず、解説者を務めながらメディアにもしっかりと露出。カラオケ
ボクシング界はレナード不在中の間もレナードを中心に回っていたのだ。
抜け目のないレナードは、水面下で無敵のミドル級王者マーベラス・マービン・ハグラーへの挑戦を画策。
ハグラーを巧みに挑発して有利な条件での王座挑戦交渉に成功する。
多くのファンに無謀と言われながらも、1987年についに統一世界ミドル級王座への挑戦が実現。
この試合でレナードは長いブランク明けとは思えない抜群のパフォーマンスを見せる。
ハグラーの重厚なプレッシャーをスピード豊かなフットワークでいなし、隙を見ては速射砲のような高速連打を披露して観客にアピール。
いつの間にか会場はレナードコール一色となっていた。
ハグラーにとっては可哀想な展開(笑)。
持てる力を出し尽くして試合終了のゴングが鳴り、判定は勝者レナード。
奇跡的なカムバック劇で3階級制覇達成となった。
さらなる高みを目指すレナードは、1988年にはWBC世界L・ヘビー級王者ドン・ラロンデへの挑戦に照準を絞る。
レナードはこの試合で一石二鳥を狙った。
というのは、L・ヘビー級王者のラロンデを新設されたS・ミドル級リミットまでウエイトを落とさせることで、L・ヘビー級王座挑戦とともにS・ミドル級の王座決定戦も兼ねるというウルトラCを画策したのだ。
認定団体がこれを了承したことで、変則的なダブルタイトルマッチが実現となった。
こういうずる賢いところもレナードの才能なのである(レナードだけの意向で決まるわけではないのだが)。眼鏡
この大試合でレナードは期待通りにラロンデを9回TKOに下し、驚異の5階級制覇を達成。パンチ
歴史的な金字塔を打ち立てた。位置情報
大記録を打ち立てた後のレナードのモチベーションはやや減退。
1989年には、ハーンズ、デュランという永遠のライバルと戦うことでモチベーションを保とうとしたが、ハーンズには分の悪いドロー、デュランには凡戦の末に小差の判定勝ちと今ひとつ乗り切れず。
しばらくのブランクの後、1991年に“テリブル”テリー・ノリスとWBC世界J・ミドル級王座決定戦を争うも、全く精細を欠いたレナードは、意外な12回判定負けで若いノリスに名をなさしめてしまった。
この試合後に引退を発表し、ファンは今度こそレナードがリングに帰ってくることはないだろうと思っていたが、長い沈黙を破ってなんと1997年に突如カムバックを発表。
しかし、ボクシングの世界はそれほど甘くはなく、ヘクター“マッチョ”カマチョに8回KOの惨敗で再起失敗。
最後の引退発表をすることとなった(もうカムバックを言い出すことはないとは思うが(笑))。
あれだけ頭のいいレナードであっても、やめ時を迷うほどのボクシングの魅力には勝てなかったのだろう。

現代ボクシングは、ジョー・ルイス、シュガー・レイ・ロビンソン、モハメド・アリを経て、シュガー・レイ・レナードの出現をもってほぼ完成したと言っても過言ではないだろう。グッド(上向き矢印)
ボクシングが力と力のぶつかり合いから、より高度な駆け引きを要するテクニカルなスポーツへと進化するにあたって、レナードの洗練されたボクシングスタイルは多くのボクサーの模倣するところとなった。
日進月歩で進化していくのがスポーツなのだろうが、ボクシングに関してはレナードらが活躍した黄金の80年代からは贔屓目なしにそれほど変わっていないように思える。
その黄金の80年代の中心にいたレナードは、間違いなく時代を先取りするほどの素晴らしいボクサーだったと断言できる。exclamation×2
陸上の短距離選手も真っ青の速すぎるフットワーク、人間業とは思えない反射神経、まるで漫画のような驚異のハンドスピードは今もってボクシングを志す者の憧れの的だ。ぴかぴか(新しい)
ボクサーらしくない童顔にチャーミングな笑顔もファンの心をいつまでも捕らえて離さない。
カリスマとは彼のような選手のことを指すのだろう。
シュガー・レイ・レナードというのはリングネームで、本名はレイ・チャールズ・レナード。
彼の母親が歌手のレイ・チャールズの大ファンだったことからその名を拝借したらしい。
でも彼はリングネームでもわかるようにレイ・チャールズよりもシュガー・レイ・ロビンソンに憧れていた。
そして己の力でレイ・チャールズや元祖シュガーにも劣らないスーパースターになったのだ。
シュガー・レイ・レナードの名は、既に多くの人間の憧れの的になっているのだから。わーい(嬉しい顔)
posted by ティト at 23:06| 岩手 ☔| Comment(22) | TrackBack(0) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月16日

マービン・ハグラー

マービン・ハグラー(米)
世界ミドル級チャンピオン
ニックネーム:マーベラス
生年月日:1954.5.23
戦績:62勝52KO3敗2分


スキンヘッドと筋肉隆々の鋼のような肉体。車椅子
無表情で感情を大きく現すことも少なく、いかにもいかつい風貌だ。ドコモ提供
そして無慈悲なまでの強さ。
仕事人の雰囲気が漂うまさにマーベラス(驚異的な)な戦士である。パンチ
ニュージャージー州ニューアークに生まれたハグラーは、1967年に発生した暴動の影響で家を焼かれ、マサチューセッツ州ブロックトンに移住することとなる。
当時はベトナム戦争真っ只中で人々の心は荒み、ハグラーもそういう荒んだ環境の中で青春時代を過ごす。
ちなみにハグラーは相当な不良少年だったらしい(笑)。
そんな生活から抜け出すためにハグラーはボクシングを志したのだという。
まず幸運だったのはブロックトンでペトロネリ兄弟と出会ったこと。
ハグラーの才能を見抜いて彼をプロのリングで売り出してくれたのがペトロネリ兄弟。
1973年にプロデビューを果たしたハグラーは、旺盛なマッチメークの下で順調にキャリアを重ねる。
一戦ごとに強さを増していったハグラーは次期世界王者と呼ばれるまでのホープに成長。右斜め上
しかし世界挑戦はなかなか実現せず。
危険なほど強いハグラーを当時の世界王者達は敬遠したのである。
長らく「無冠の王者」に甘んじていたハグラーにようやくチャンスが巡ってきたのは1979年。
世界ミドル級王者ビト・アンツォフェルモに挑戦したハグラーだったが、入れ込みすぎてやや空回ったまま試合終了のゴングが鳴る。
それでも判定はハグラー有利と思われたが、結果はドロー。
しかしここで腐らなかったハグラーは、3戦挟んで再び世界挑戦のチャンスをつかむ。
世界ミドル級王者アラン・ミンターに挑んだ2度目の世界戦で、今までの鬱憤を晴らすような3回TKOの圧勝で念願の世界タイトルを獲得。
王者となってからのハグラーは、自らの強さを証明するため、防衛戦では毎回最強の挑戦者と言われた選手をあえて選択。手(グー)
ビト・アンツォフェルモ、ムスタファ・ハムショ、ロベルト・デュラン、ファン・ドミンゴ・ロルダン、トーマス・ハーンズ、ジョン・ムガビ等、そうそうたる強豪選手と戦って真っ向からねじ伏せた。ダッシュ(走り出すさま)
12度の防衛のうち、KOを逃したのはロベルト・デュランだけ。
ミドル級の絶対王者として君臨していたハグラーが長らく対戦を待ち望んでいた相手がシュガー・レイ・レナード。
試合以外のパフォーマンスで人気を取り、自分以上の大金を稼ぐレナードを、ひたすら真正直に強さだけを追い求めるハグラーは毛嫌いしていた。
自分の手でいけ好かないレナードを懲らしめる機会をうかがっていたハグラーだが、レナードの一時的な引退や、カムバック後のレナード側の様々な注文でなかなか交渉がまとまらず。
1987年、ファイトマネーの取り分、リングの広さ、ラウンド数といったレナードの注文をハグラーが飲み、ついにスーパーファイトが実現。
多少の不利益もいとわずに実現したこの試合にハグラーは気合十分。
試合開始のゴングから試合終了のゴングまでハグラーはひたすら攻め続けた。
レナードはひたすら逃げ続け(ているように見えた)た。
まともに打ち合っては分の悪いレナードは、徹底的に打ち合いを避け、広く設定したリング内を所狭しとサークルし続けたのだ。くつ
結果は僅差の判定でレナードの勝利となり、13度目の防衛はならず。
この試合を境として、アウトボクサー有利の採点が世界的趨勢となっていった印象。
ハグラーはこの判定負けを認めず、そのまま引退を発表。
多くのファンにカムバックを期待されながらも頑としてボクシング界に戻ってくることはなかった。

実は管理人の最も好きなボクサーがこの“マーベラス”マービン・ハグラー。ひらめき
ボクシングの戦術の基本は相手に力を出させないことだというが、ハグラーのスタイルは、相手の持てる力を発揮させ、それを真っ向から受け止めたうえでねじ伏せるというもの。手(パー)
まるで相撲の横綱だ(笑)。
ハグラーの真正直な性格がボクシングスタイルによく現れている。
かといってテクニックがおろそかになっているわけではない。
いとも簡単にスイッチできる器用さを持ち、ディフェンスやフットワークも素晴らしい。
ハグラーの強さは完璧なテクニックに裏打ちされた強さなのだ。ぴかぴか(新しい)
ミドル級歴代最強論争にハグラーの名前は欠かせないだろう。
ハグラーに敗れた選手は皆、その底知れない強さの前に完敗を認めた。
管理人はハグラーの現役時代、彼をポイントアウトではなく真っ向から打ち破れるボクサーは現れるのだろうかと常々思っていた。
ハグラーの戦績中の3敗2分けは全て微妙な判定。
ついにハグラーを打ち破るボクサーを見ることはできなかった。exclamation×2

引退後のハグラーは、そのいかつい風貌を生かして俳優として活躍。
絶対に悪役が似合う(笑)。爆弾
チャンピオン然としたオーラがにじみ出ているハグラーと向き合ったら大抵の人は逃げ出すだろう。あせあせ(飛び散る汗)
その強さ、その風貌、何から何までタフな男である。グッド(上向き矢印)
posted by ティト at 13:47| 岩手 ☀| Comment(17) | TrackBack(0) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月08日

エウセビオ・ペドロサ

エウセビオ・ペドロサ(パナマ)
WBA世界フェザー級チャンピオン
ニックネーム:パナマの熱風
生年月日:1953.3.2
戦績:42勝25KO6敗2分1無効試合


長身に長い手足、軽快なフットワーク、間断なく繰り出される圧倒的な手数。
これだけ揃った選手と戦って勝つことはいかに困難なことなのかはだいたい想像できるだろう。
ペドロサはこの独特のやりにくさを武器に19度防衛というフェザー級歴代最長期政権を築いた名王者である。ひらめき
プロデビューは1973年で、当初はバンタム級。
パワー不足と打たれもろさを指摘されながらも順調にキャリアを積み重ねたペドロサは、1976年にデビュー16戦目にして早くも世界挑戦のチャンスをつかむ。
相手はWBA世界バンタム級王者アルフォンソ・サモラ。
自信満々で試合に臨んだペドロサだったが、序盤にサモラの強打に捕まってしまい、いいところなく2回KO負けで王座奪取はならず。
同年にはノンタイトル戦でオスカル・アルナルにも6回KO負けで完全に世界戦線から脱落したと思われた。
ペドロサの転機はフェザー級に転向したこと。
ずば抜けた長身で元々減量に苦しんでいたペドロサだったが、1階級飛び越えてフェザー級を主戦場とすることによって本領発揮。
フェザー級で戦い始めた1977年からのペドロサの戦いぶりは安定感抜群。グッド(上向き矢印)
パワーが増すとともに、スタミナの不安がなくなり、縦横無尽に動き回る変幻自在のボクシングスタイルを構築していった。
フェザー級転向4戦目の1978年には早くも世界挑戦の機会が訪れる。
WBA世界フェザー級王者セシリオ・ラストラに挑戦したペドロサは、サモラに敗れた時とは別人のような強さでラストラを13回KOに下して念願の戴冠。位置情報
以降のペドロサは全く危なげなく防衛を積み重ねる。
防衛戦の中には来日経験もあり、ロイヤル小林には13回KO勝利、スパイダー根本には大差の15回判定勝利。
スピードと圧倒的な手数で日本のホープを全く寄せ付けなかった。
ルーベン・オリバレスやファン・ラポルテといった強豪も下しつつ、防衛回数は驚異の19度。ダッシュ(走り出すさま)
20度という節目の防衛を意識し過ぎたのか、1985年にバリー・マクギガンに15回判定負けを喫して7年間保持した虎の子のタイトルを失う。
張り詰めていた糸が切れてしまったペドロサは、翌年の再起戦でエドガー・カストロに10回判定負けしたのを最後に引退。
他の名選手の例に漏れず数年後の1991年にカムバックしたものの、再起4戦目にマウロ・グティエレスに判定負けで1992年に本当の引退となった。

ペドロサのとらえどころのないボクシングスタイルは、誰が戦ってもやりづらそう。あせあせ(飛び散る汗)
曲者王者を数多く生み出したパナマだが、ペドロサはその代表格かも。
あらゆる角度からポンポン手が出るボクシングは日本人ボクサーにも大いに参考にしてもらいたい。ひらめき
長身で筋肉質の体格と褐色の肌。
見るからバネがありそうで日本人ではなかなか見られない恵まれた体の持ち主。右斜め上
名王者に相応しいオーラも兼ね備えた超一流の技巧派王者である。ぴかぴか(新しい)
posted by ティト at 20:57| 岩手 ☀| Comment(6) | TrackBack(0) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月04日

カルロス・サラテ

カルロス・サラテ(メキシコ)
WBC世界バンタム級チャンピオン
ニックネーム:KOアーチスト
生年月日:1952.5.23
戦績:70勝66KO4敗


数多くの怪物王者を生んだボクシング王国メキシコの中でもトップクラスの怪物王者と言えるのがカルロス・サラテだ。ドコモポイント
まず戦績が驚異的。
よく比較されることも多い同郷の先輩王者ルーベン・オリバレスをも上回る高いKO率。
とても軽量級の戦績ではない。グッド(上向き矢印)
連打で相手をねじ伏せるスタイルのオリバレスと比較して、サラテのスタイルはどちらかと言うとピンポイント強打を急所に決めるワンパンチフィニッシャー。パンチ
KOアーチストと呼ばれる所以である。
サラテは1971年にプロデビュー。
並外れた強打で早々に頭角を現し、KOの山を築きながら連戦連勝。
当時の世界王者達から警戒されるほどの強さを見せながら辛抱強く桧舞台のチャンスを待つ。
そして1976年、デビュー44戦目にして待望の世界挑戦が実現。
WBC世界バンタム級王者ロドルフォ・マルチネスと対戦したサラテは、9回に王者を強打でロープ外に叩き出す圧倒的なKOで王座奪取。
44勝43KO無敗のとてつもない戦績の王者が誕生することとなった。
衝撃的な新王者誕生劇に、ファンは、ジョフレやオリバレスを凌ぐ凄い奴が現れたと熱狂した。るんるん
王者となったサラテは、その後も期待通りの強打者ぶりを披露する。
防衛戦は全て危なげのないKO勝利。
1977年にはライバルと言われた強打のWBA世界バンタム級王者アルフォンソ・サモラと注目のノンタイトル戦を行い、4回KOの圧勝でバンタム級敵なしを証明。ダッシュ(走り出すさま)
8連続KO防衛まで記録を伸ばしたサラテは、次の目標として複数階級制覇に照準を定める。
しかも狙うはこれまた強打で売り出し中のWBC世界J・フェザー級王者ウィルフレド・ゴメス。
注目のタイトルマッチは1979年10月に実現。
1階級上の破壊的強打者ゴメスにまともに打ち合いを挑んだサラテだったが、結果はパワー負け。
5回KOに沈み、サラテの自信は粉々に打ち砕かれた。
ショックをひきずるサラテは、バンタム級に戻って9度目の防衛には成功したものの、10度目の防衛戦で伏兵ルペ・ピントールにまさかの判定負けで無冠となり、そのまま引退を発表。
脂の乗り切った時期での引退を惜しむ声も多かったが、ゴメスとピントールに敗れた心の傷はサラテにとって殊の外大きかったのである。
しかし、1度頂点を極めた選手の性なのか、サラテのボクシングの虫も再び疼き出す。
かつての一流選手というのは、若い選手が台頭してくると、自分が現役だったら一ひねりなのにと思ってしまうものらしい。ひらめき
約7年のブランクを経て1986年についにサラテはカムバック。
順調に調整試合をこなすものの、かつての正確無比の強打は完全には戻らず。
それでもかつての実績もあって世界挑戦権を得たサラテは、1987年にはジェフ・フェネックの持つWBC世界J・フェザー級王座に挑戦。
しかし、若いフェネックのエネルギッシュな攻勢の前に4回TKO負けの惨敗。
1988年にはフェネックの返上したタイトルをダニエル・サラゴサと争ったが10回TKO負けで世界戦2連敗。
フェネック、サラゴサと後に名選手と呼ばれる若手に名を成さしめ、ついに本当の引退となった。

リング上では破壊的ハードパンチャーのサラテだが、リング外では一見すると普通のサラリーマンのような風貌。ペン
人懐っこく親しみやすい印象のある優等生だ。
メキシコのみならず日本でもサラテファンは相当いるはず。右斜め上
バンタム級歴代最強論争には必ず登場する名選手であり、その鮮やかなKOアーチストぶりは今も多くのファンの語り草となっている。
ずば抜けたKOパンチャーというのは、時代を超えるほどの人気があるってことなのだろう。ぴかぴか(新しい)
posted by ティト at 11:49| 岩手 ☀| Comment(13) | TrackBack(0) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月01日

アレクシス・アルゲリョ

アレクシス・アルゲリョ(ニカラグア)
WBA世界フェザー級、WBC世界J・ライト級、WBC世界ライト級チャンピオン
ニックネーム:ニカラグアの貴公子
生年月日:1952.4.19
戦績:83勝67KO7敗


ニカラグアという国は日本には元々あまりなじみのなかった国だと思う。
有名スポーツ選手の名前を聞くこともまずない。
そんなマイナーな(ニカラグアの皆さんごめんなさい)ニカラグアにおいて、突然変異のように超一流のスポーツヒーローが現れた。
それが「ニカラグアの貴公子」と称されたアレクシス・アルゲリョである。ぴかぴか(新しい)
アルゲリョは1968年に16歳でプロデビュー。
基本に忠実で綺麗なボクシングスタイルを身につけで徐々に実力を蓄えたアルゲリョは、若くして南米の実力者としての名声を得る。
世界初挑戦は1974年。
エルネスト・マルセルの持つWBC世界フェザー級王座に挑んだが、善戦の末に惜しくも15回判定負け。
しかしこれで世界への手応えを完全に掴んだアルゲリョは、同年、メキシコのKOキングWBA世界フェザー級王者ルーベン・オリバレスに挑戦。
バンタム級で一時代を築いた名王者オリバレスの意地の前に後手を踏む場面も多かったアルゲリョだったが、若さと体力にモノを言わせて終盤に反撃。
そして13回に会心の左フック、右アッパーが立て続けに炸裂。
見事なKO勝利で新旧交代となった。位置情報
王者となって自信を増したアルゲリョはその後目覚しい躍進を見せる。
ノンタイトル戦や防衛戦の内容は圧倒的。
1975年の3度目の防衛戦では“KO仕掛け人”ロイヤル小林と対戦し、強烈な左ボディを決めて5回KO勝利。
KO仕掛け人をして、「アルゲリョのパンチは氷の塊で殴られていると感じるほど強烈な威力だった」とあきれさせるほどの強打で日本のホープを一蹴。パンチ
ちなみに、管理人はロイヤル小林さんと以前お話させていただいたことがある(ちょっと自慢)。
フェザー級無敵のアルゲリョは、4度の防衛を果たした後に王座を返上し、複数階級制覇に目標を定める。
そして1978年にWBC世界J・ライト級王者アルフレッド・エスカレラを13回KOに下して2階級制覇達成。
J・ライト級王座は8度防衛して返上。
1981年にはジム・ワットの持つWBC世界ライト級王座に挑戦し、15回判定勝利で3階級制覇達成。
名選手としての世界的名声は確固たるものとなった。ひらめき
ライト級王座を短期間で4度防衛した後、あくなき挑戦を続けるアルゲリョは、1982年には4階級制覇を狙って無敗のWBA世界J・ウエルター級王者アーロン・プライアーに挑戦。
凄まじい激闘となったこの試合は、猛烈ファイタープライアーの八方破れの乱戦に巻き込まれた正統派ボクサーアルゲリョが14回KO負けに沈んだ。
雪辱に燃えるアルゲリョは、翌年に再びプライアーに挑戦。
第1戦と同じような内容で、10回KOにて再びプライアーの勝利。
刀折れ、矢も尽きたような表情のアルゲリョが印象的。
アルゲリョにとって組し易いと思われたWBC王者ブルース・カリーではなく、宿敵プライアーにこだわりすぎたために4階級制覇はならなかったとも言われたが、ファンはアルゲリョのチャレンジャースピリッツに賞賛を惜しまなかった。グッド(上向き矢印)
燃え尽きたアルゲリョは、プライアー戦後に2戦こなしただけで1986年に引退。
突如として1994年にカムバックしたものの、1995年にスコット・ウォーカーに10回判定負けでわずか2戦でカムバックロードは幕を閉じた。

アルゲリョは長身で手足が長く、小顔でハンサム。
強いだけではなく、まるでファッションモデルのようなかっこよさで、「ニカラグアの貴公子」のニックネームがマッチしている。るんるん
ちなみに多くのファンや専門家がフェザー級歴代最強にアルゲリョを推している。手(チョキ)
母国ニカラグアではまさに国民的なヒーローであり、確か何かの大臣に任命されていたはず。
頭脳も明晰で、確固たる政治的信条も持ついわゆる文武両道の好人物。ペン
政治的に混迷していた母国で政府軍の兵士に志願したこともあったとのこと。モータースポーツ
1994年に突然カムバックした理由の一つに母国のスポークスマン的な役割を果たしたいという思いもあったらしい。
強さとハートを兼ね備えたスポーツ選手の枠を超えるナイスガイである。
常に高い目標を追い求め続けた好漢アルゲリョには爽やかな笑顔がよく似合う。わーい(嬉しい顔)
posted by ティト at 14:35| 岩手 ☀| Comment(29) | TrackBack(1) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月29日

ロベルト・デュラン

ロベルト・デュラン(パナマ)
WBA、統一世界ライト級、WBC世界ウエルター級、WBA世界J・ミドル級、WBC世界ミドル級チャンピオン
ニックネーム:石の拳
生年月日:1951.6.18
戦績:104勝69KO16敗


パナマ語で「マノス・デ・ピエドラ」、英語では「ハンズ・オブ・ストーン」。
日本語では「石の拳」の愛称で知られる名王者中の名王者がこのロベルト・デュランである。パンチ
デュランはパナマのスラム街で生まれ、子供の頃からストリートファイトに明け暮れたわんぱく小僧だったとのこと。たらーっ(汗)
少年時代に素手で馬を殴り倒したなんて武勇伝もあるほど。がく〜(落胆した顔)
歴史的名王者であるデュランだが、そのボクシングは意外にも全くの叩き上げ。
プロデビューは1967年でなんと15歳の時。
デビュー当初はストリートファイトの延長のような力任せの荒っぽいスタイルだったが、デュランはただの喧嘩屋ではなくずば抜けたセンスを持つ喧嘩屋だった。ダッシュ(走り出すさま)
スポンジが水を吸収するがごとく1戦ごとに凄まじい勢いで成長し、10代のうちから「パナマにロベルト・デュランあり」とその名が轟くほどのホープとなる。グッド(上向き矢印)
圧倒的な強さで連戦連勝し、1971年には世界王座を失ったばかりの小林弘をも7回KOで一蹴して世界王座を射程県内に捕らえる。
その勢いを駆って1972年、WBA世界ライト級王座に挑戦。
スコットランドの名王者ケン・ブキャナンの頑強な抵抗に遭ったものの、徐々にパワーで圧倒。
13回にややローブロー気味のダウンを奪われたブキャナンは立ち上がることができず。
後味の悪い結末ではあったが、エネルギッシュな試合内容でニューヒーローが誕生した。位置情報
得意絶頂のデュランだったが、同年、初防衛戦前の調整試合のつもりで臨んだエステバン・デ・ヘススとのノンタイトル戦で10回判定の思わぬ初黒星を喫する。
この敗戦を良薬としたデュランは、その後、テクニック面で格段の進歩を見せる。
攻撃面の迫力はそのままで、ボディワークやガードで相手のパンチをもらわないようになって安定感が向上。
1973年には3度目の防衛戦で鈴木石松(ガッツ石松)を10回KO。
1974年には4度目の防衛戦の相手に因縁のデ・ヘススを指名する。
この試合は初回にデュランがダウンを喫する波乱のスタートとなったが、徐々にパワーで上回り始めたデュランが11回逆転KO勝利。
1978年にはガッツ石松を破ってWBC王者となったデ・ヘススとのラバーマッチに臨み、12回KO勝利でライバル対決に決着を着けるとともにライト級王座を統一。手(チョキ)
体重苦のあったデュランはこの試合を最後にライト級王座は返上(WBA王座は12度防衛)。
アントニオ・セルバンテスのJ・ウエルター級王座を狙うものと思われていたが、デュランは1階級飛び越えてウエルター級のスーパースターであるシュガー・レイ・レナードに照準を定める。
無謀と言われながらも1980年にWBC王者レナードへの挑戦が実現。
この試合のデュランは見るからに気合十分。手(グー)
スピードで上回るレナード相手に苦しい試合となったが、石の拳と称される得意の右ストレートで何度もスピードスターをたじろがせて堂々とした判定勝利。
デュランのベストバウトと言ってもいい会心の試合で2階級制覇を達成。ひらめき
デュランの世界的評価は確固たるものとなった。
徐々に階級を上げたデュランは、1983年にはデビー・ムーアを8回TKOに屠り、WBA世界J・ミドル級を獲得。
1989年にはアイラン・バークレーに12回判定勝ちでWBC世界ミドル級王座を獲得し、4階級制覇の偉業を達成。
同年、ライバルであるレナードの持つWBC世界S・ミドル級王座に挑戦したが、12回判定負け。
惜しくも5階級制覇はならなかった。
その後、年齢による衰えに加え、練習不足や節制不足でかつての面影のない試合ばかりが続き、ファンを大いに嘆かせながら現役を続ける。
1998年にはウイリアム・ジョッピーの持つWBA世界ミドル級王座への挑戦が実現したものの、3回TKOの惨敗で既に世界レベルには遠く及ばないことを露呈。
超一流選手の辞め時は本当に難しいという典型的な例。
2001年にヘクター・“マッチョ”カマチョに判定負けを喫したのを最後についに引退と相成った。
しかし30年以上の現役生活は驚異的。
ボクシングをするために生まれてきたと言ってもいい怪物の中の怪物である。

デュランのファンは世界中に数多くおり、日本にもデュラン信者は相当いる。右斜め上
今も多くのボクサーが憧れ、目標とするスーパースターが“石の拳”ロベルト・デュランなのである。exclamation×2
デュランが尊敬を集める最大の理由は、強敵を求めて世界中を渡り歩いたことだろう。
シュガーレイ・レナード、トーマス・ハーンズ、マービンハグラー、ウィルフレド・ベニテス等のライバルと言われた選手と積極的に対戦。
強敵相手に敗北を喫することもあったが、デュランの試合はいつもエキサイティングでファンを大いに熱狂させた。るんるん
圧倒的な馬力で相手をねじ伏せた若い頃のデュランも、階級を上げていくにつれてテクニカルになったデュランも魅力的なボクサーだ。
ライト級時代のデュランはとにかく体を激しくローリングして打って打ってうちまくるファイタースタイル。
あれほどの破壊的な強打をひたすら繰り出すことができる無尽蔵のスタミナに管理人も驚いたものだ。
ウエルター級以降のデュランはディフェンス勘の冴えが目立った。
ダッキング、ウィービング、スウェーを駆使して最小限の動きで相手のパンチを外すディフェンス勘には天性のものを感じさせた。
30年以上のリング生活を送れたのも並外れたボクシングセンスがあったからなのだろう。
多くのファン、専門家がデュランをライト級歴代最強に推すのもうなずける。
それだけずば抜けた選手であり、ボクシング界の歴史に燦然と輝く名選手だということ。ぴかぴか(新しい)
レナードに勝って2階級制覇した日を記念し、母国パナマでは「デュランの日?」なる国民の祝日まであったらしい。
国まで動かすとは、恐るべしロベルト・デュラン。あせあせ(飛び散る汗)
posted by ティト at 12:27| 岩手 ☁| Comment(20) | TrackBack(0) | 外国人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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