2010年07月30日

薬師寺保栄

薬師寺保栄(松田ジム)
WBC世界バンタム級チャンピオン
ニックネーム:
生年月日:昭和43・7・22
大分県津久見市出身
戦績:24勝16KO3敗1分


薬師寺保栄といえば、人気者の辰吉丈一郎との激闘がまず思い浮かべられると思う。イベント
日本ボクシング史上でも屈指のビッグマッチとなったこの試合を勝ち抜いた男として、薬師寺の名はビッグネームとしてファンに認知されている。
派手な入場シーンなど、個性的なキャラクターが売り物ながら、ボクシングスタイルは、長身を生かしたストレート系のパンチを主武器とする玄人好みの正統派のボクサータイプ。
イメージとは裏腹に、コツコツと自分のスタイルを確立して世界王者に上りつめた苦労人である。ペン

薬師寺は、享栄高時代にボクシングを始める。
元々運動神経は良く、インターハイではフライ級でベスト8に入るなど、なかなかの好成績を収める。
ただし、部活以外の課外活動にも熱中したらしく、地元の暴走族に入り、特攻隊長として鳴らしていたとのこと。ドコモ提供
そんなこんなで腕っ節には自信のあった薬師寺は、高校卒業後に名古屋の松田ジムの門を叩き、昭和62年7月にプロデビュー。
自信満々でプロの道を歩みだすも、デビュー3戦目と4戦目に連敗で、早々に挫折を味わう。
打っては下がる消極的ボクシングを酷評されもしたが、徐々に生来の格闘センスを発揮。
体が出来てくるとともにシャープなストレートに威力が加わり、ホープとして関係者の期待も急上昇。
しかし、そんな矢先の平成元年、かつての暴走族仲間との暴走行為によって逮捕される失態を犯し、日本ボクシングコミッションから6ヶ月のサスペンドを課されてしまう。
お灸をすえられた薬師寺だが、その間、東南アジア遠征を敢行し、現地で試合ができたことは本人にとって貴重な経験となった。飛行機
心身ともに逞しくなって日本のリングに帰ってきた薬師寺。
しかし、平成2年6月の復帰戦で、悲劇を経験。
試合は10回KO勝利と文句なしのパフォーマンスを見せたものの、対戦相手の米坂淳の意識が試合後に戻らなくなり、なんと数日後に亡くなってしまう。
大きなショックを受けた薬師寺は、引退に心が傾いていたとのこと。
しばらく自分を見つめなおしていたが、米坂選手の夢を自分が引き継ぐことを決意。
生活態度も改め、ボクシングに一心不乱に打ち込んでいく。
平成3年6月、日本バンタム級タイトルマッチのチャンスをつかんだ薬師寺は、タフな実力派王者としてならす尾崎恵一を相手に9回TKOの快勝。グッド(上向き矢印)
この試合が出世試合となり、世界を狙えるホープとして一般にも認知されるようになる。
また、この頃に薬師寺にとって大きな出会いもあった。
アメリカのロサンゼルスで武者修行を敢行した際、日系人トレーナーのマック・クリハラ氏の指導を受け、これが薬師寺の上達に大きな効果を与えることになる。
クリハラ氏は、当時それほど知名度が高いわけではなかったが、ポール・バンキを世界王者に押し上げた名伯楽として知る人ぞ知る存在であった。
彼の課すトレーニングは過酷なものだったそうだが、それらは全て合理的かつ科学的なもので、薬師寺はみるみる上達する自分に喜びを感じ、同氏に対する信頼を深めていく。
日本王座を防衛せずに返上し、ノンタイトル戦を重ねてじっくり実力を蓄えた薬師寺に、平成5年12月、ついに世界戦の好機は訪れる。
相手はWBC世界バンタム級王者の辺丁一(韓)。
両者ともボクサー・タイプで、ソウル五輪銀メダリストからプロの世界王者になった技巧派王者を相手に予想は当然不利とされた。
しかし、ゴングが鳴ると、薬師寺は積極的に打って出てアウトボクサーの辺を追い回す展開で活路を開く。
力強いパンチで有効打を狙う薬師寺と、回転が良く細かい手数で対抗する辺の一進一退の試合は、ついに12回終了のゴングにより判定勝負となる。
判定結果は、2−1のスプリットで薬師寺の勝利。位置情報
管理人もガッツポーズした記憶がある。
王者となって自信を増した薬師寺は、初防衛戦でホセフィーノ・スアレス(メキシコ)に10回KO勝利。
平成6年7月の2度目の防衛戦では、前王者の辺をパワーで圧倒し、11回KO勝利の完全決着で内外に王者の証明のアピールとなる。パンチ
しかし薬師寺には、真の王者であることを証明するために何としても倒さなければならない相手がいた。
それが辰吉丈一郎であった。
薬師寺が王座を獲得する前に暫定王座を獲得していた辰吉は、景気の良いビッグマウスが大勢のファンに支持される人気者で、マスコミにも正規王者の薬師寺が仮の王者であるかのような扱われ方をされていたように記憶している。
そんな人気者の辰吉陣営との対戦交渉で主導権を握るのは困難だったことから、すったもんだの末に入札となり、結果は薬師寺陣営が高額で落札。
落札するために薬師寺側が払った金銭的負担は重く、辰吉のファイトマネーをまかなうために薬師寺のファイトマネーが大幅に削られるという舞台裏があったとのこと。
それでも、地元名古屋開催を引き寄せてくれたジムに対する感謝の気持ちを秘め、薬師寺は周囲の雑音をシャットアウトしてマック・トレーナーとの猛練習に明け暮れる。
そして平成6年12月、運命の開始ゴングが鳴った。
序盤、快調に飛ばしたのは薬師寺。
得意の長い左ジャブとワンツーが辰吉の顔面をとらえ、辰吉の目の上は大きく腫れ上がる。
薬師寺がこのまま圧倒するかと思われたが、終盤に辰吉が鬼神の猛反撃。
応戦した薬師寺だが、徐々に押されて下がる場面が目立つようになる。
辰吉の盛り返しで興奮のるつぼと化した歴史的一戦は、両者疲労困憊で終了ゴングを聞くこととなった。
結果は2−0で薬師寺の勝利。ひらめき
管理人の採点では中差で薬師寺の勝利だったように記憶している。
ビッグマッチを制した薬師寺には長期政権が期待されたが、平成7年7月に行われた5度目の防衛戦で不覚を取る。
バルセロナ五輪銀メダリストで指名挑戦者のウェイン・マッカラー(アイルランド)の手数に対し、単発の有効打で対抗したものの、判定は2−1でマッカラーを支持。
虎の子のタイトルを微妙な判定で落としたものの、王座再復帰も可能と思われる接戦であったことから、再戦を望む声も多く、カムバックが規定路線と思われていたのだが、4ヵ月後に引退を表明。
惜しまれつつリングを去ることとなった。

引退後は、周知のとおり芸能界で大活躍。TV
頭の回転の速さを生かして様々な番組で才能を発揮している。
平成19年には、薬師寺ボクシングジム&フィットネスを名古屋市に開設。
練習生と一緒に明るく楽しく汗を流しているとのことだ。
明朗活発な薬師寺氏には、ボクシング界をますます明るく照らしていただきたいと思う。ぴかぴか(新しい)

posted by ティト at 23:27| 岩手 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月11日

高橋ナオト

高橋ナオト(アベジム)
ニックネーム:逆転の貴公子
東京都調布市出身
日本バンタム級、J・フェザー級チャンピオン
生年月日:昭和42.11.17
戦績:19勝14KO4敗


ボクサーは、世界チャンピオンにならなければスターにはなれないといわれる。
しかし、昭和末期から平成初期にかけ、世界王者でない1人のボクサーが、世界王者以上にファンを熱狂させていた。演劇
それが今回紹介する高橋ナオト。
スマートな風貌からは想像できない火の玉ファイトで伝説的な逆転劇を生み出し、「逆転の貴公子」と称された激闘王である。爆弾

高橋は、少年時代からボクシングに熱中し、昭和60年2月、府中農在学中に17歳でプロデビュー。
高校生ボクサーとして話題を集める。
反射神経が抜群に良く、負けん気も強かった高橋は、話題だけではなく実力も本物。
メキメキと頭角を現して連勝街道まっしぐらとなる。ダッシュ(走り出すさま)
昭和61年3月、片山清一を2回KOに下して全日本バンタム級新人王を獲得。
同年9月には、島袋忠司に8回判定勝利でA級トーナメント優勝と同MVPを獲得。
誰もが認めるホープとして、一気に脚光を浴びることとなる。
A級トーナメント制覇で日本ランク1位となった高橋は、昭和62年2月、指名挑戦者として、日本バンタム級王者の今里光男へ挑戦する。
実力者の今里を相手に苦戦も予想されたが、後楽園ホールは、試合前からニュースター誕生への期待が高まっていた。
ちなみに、若くて颯爽とした風貌の高橋にはマスコミの食いつきも良く、日本タイトルながら異例のテレビ生中継(管理人の地元岩手では放映なしでしたが・・・)と期待の高さを物語っていた。TV
ゴングが鳴ると、期待通りに高橋がシャープな動きを見せる。
ハイレベルなせめぎ合いの中、高橋のカウンターのタイミングが徐々に合い出し、5回に抜群の右カウンターがついにヒットで今里がダウン。
立ち上がった今里だが、鋭く詰めた高橋がそのままフィニッシュ。
あまりにも鮮やかな戴冠劇でデビュー以来の連勝は11に伸びる。
この試合は、この年の年間最高試合に選出された。
前途洋々の19歳の若者に、ファンは、当時低迷していたボクシング界の救世主としての役割を期待し、大きな夢を馳せたものだった。グッド(上向き矢印)
昭和62年6月、初防衛戦で前王者の今里を3回KOに下し、実力を再証明。
早期の世界戦を期待されたものの、2度目の防衛戦で思わぬつまづき。
昭和62年10月、有利の予想の中で小林智昭にまさかの10回判定負けで王座陥落。
再起を期し、昭和63年1月、かつてA級トーナメントで戦ったことのある島袋忠司と日本バンタム級王座決定戦を争うも、雪辱に燃える島袋の右ストレートが炸裂し、6回KO負け。
まだ体が成長途上で、減量に苦しんでいた高橋は、階級を上げて再出発することを決意。
減量苦が多少和らぎ、持ち味のシャープさを取り戻して進撃開始となる。
そして伝説として語り継がれるあの名勝負が生まれることとなるのである。ひらめき

平成元年1月、高橋は、ランキング1位の指名挑戦者として、日本J・フェザー級王者マーク・堀越に挑戦する。
WBA世界J・フェザー級6位のランクを持ち、世界挑戦目前と言われた強打者マークが予想ではやや有利と言われていたが、高橋も自信満々の面構えででリングへ上がる。
ゴングが鳴ると、マークが持ち前の強打をダイナミックに振り回して突進し、高橋も一歩も引かずカウンターで迎え撃つ展開。
3回にマークがラッシュを敢行すると高橋は失速。
このままマークのペースで進むかと思われたが、4回には高橋の渾身の右カウンターがまともにヒットし、マークがダウン。
さらにダウンを追加し、絶好のKOチャンスをつかんだものの、ここはマークが踏ん張ってこの回の終了ゴングが鳴る。
今度は高橋のペースになると誰もが思ったが、5回を持ちこたえられると、ダメージから回復したマークの逆襲が始まる。
パワーで打ち勝ち始めたマークに対し、高橋は徐々にスローダウン。
そして8回、堀越の丸太を振り回すような左フックがヒットし、高橋はダウン。
立ち上がったもののダメージはありありで、マークはここぞとばかりに詰めにかかる。
この回をゴングに救われた高橋だが、9回も容赦ないマークの攻勢にさらされ、もうストップかと思われた次の瞬間、高橋の起死回生の左フック、右ストレートが炸裂。
高橋の本能だけで出たようなパンチがまともに当たり、前がかりになっていたマークがストンとダウンする。
立ち上がって効いていないとファイティングポーズを取るマークだったが、これでふらふらだった高橋に力がみなぎった。右斜め上
強気に前に出てくるマークに対し、今度は完全に狙いすました必殺右カウンターが強烈にヒット。パンチ
もんどり打って倒れたマークは、それでも意地で立ち上がる。
必死にファイティングポーズを取るも、ふらつく足を確認したレフェリーはカウントアウト。
史上稀に見るシーソーゲームは、高橋に凱歌が上がった。
勝利を決めた直後、精も根も尽き果てたようにリングに倒れこんだ高橋の姿が印象的で、勝者、そして敗者をも称える後楽園ホールは興奮のるつぼと化していた。
この伝説的な試合を間近で見られたファンは、まさに伝説の生ける証人であろう。イベント
管理人も見たかった(笑)。
この試合は、世界戦を差し置き、文句なしの年間最高試合に選出される。手(チョキ)
高橋にとっては、初戴冠の今里戦以来2度目の年間最高試合となる。
世界戦以外で2度も年間最高試合の当事者となる選手は今後も出てこないだろう。

世紀の逆転劇で、「逆転の貴公子」の称号を得た人気者の高橋に、是非早期の世界戦をというファンの声はいやがおうにも高まる。るんるん
しかし、阿部会長は、こういう危ない橋を渡るような戦いを好まなかったようで、打たせずに打つボクシングを高橋に期待していたとのこと。
実力者相手に安定した勝利を得られるようになるまでは、容易に世界戦にゴーサインを出すつもりはなかったようだ。
平成元年5月、世界前哨戦とされたタイ王者のノリー・ジョッキージムとのノンタイトル戦は、マーク戦のように先にダウンを奪われた後の逆転の3回KO勝利。
マークとの激戦のダメージはやはり抜け切れていなかったのだろう。
ファンの人気はうなぎのぼりだったが、やはり阿部会長は世界戦へのゴーサインを出さず。
日本王座の防衛戦を1つクリアーした後、世界戦への最後のテストとして、会長はノリーとの再戦を高橋に課した。
平成3年2月11日、東京ドーム。
そう、あのタイソンVSダグラスの統一世界ヘビー級タイトルマッチの行われた日のセミファイナルで高橋の世界前哨戦は行われた。
5万5千人の観客が見守る中、高橋はノリーに6度のダウンを奪われ、10回大差判定の完敗。
数々の激闘は、高橋の肉体に想像以上の大きなダメージを蓄積させていた。
体調がすぐれないまま、再起を決意したものの、平成3年1月、朴鐘弼(韓)とのノンタイトル戦で9回KO負け。
試合後しばらくして、脳内出血が判明する。
本人はなおも現役に未練があったそうだが、稀代のカリスマボクサーは若くしてリングを去ることとなった。

世界王者でない日本人ボクサーで、高橋ナオトほど多くのボクシングファンに愛された者はなかなか見当たらないであろう。
“浪速のロッキー”赤井英和の人気も凄まじいものがあったが、どちらかというとアイドル系の人気者であった赤井に対し、高橋はコアなボクシングファンに熱狂的に支持された。音楽
引退後は、ボクシング漫画「はじめの一歩」の作者である森川ジョージ氏の協力を得て、JBスポーツクラブを設立。初代会長に就く。
森川氏は、「はじめの一歩」で高橋をモデルとするキャラクターを主人公のライバルとして登場させるほど、高橋のボクシングに心酔していたそうだ。
指導者としての高橋氏は、福島学を世界挑戦まで押し上げた実績が光る。
現在はフリーという話を聞いたが、是非今後もボクシング界のために尽力していただきたい人物である。ぴかぴか(新しい)

ちなみに、「はじめの一歩」に登場するキャラクターの中で、宮田一郎のモデルが高橋氏、鴨川源二会長のモデルが故阿部幸四郎会長とのこと。
「はじめの一歩」は、管理人も週間少年マガジンにて毎週愛読しています。わーい(嬉しい顔)

posted by ティト at 23:13| 岩手 ☁| Comment(9) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月16日

畑中清詞

畑中清詞(松田ジム)
ニックネーム:尾張のロッキー
愛知県西春日井郡西春町出身
生年月日:昭和42.3.7
戦績:22勝15KO2敗1分


日本では何事も東京中心とよく言われるが、ボクシングもご多分に漏れずで、名古屋ほどの大都市でも世界王者は長らく誕生せず。
名古屋から待ちに待った世界王者が誕生したのは、平成に入ってからのこと。
それが畑中清詞である。

畑中は、少年時代に空手の大会に優勝するなど、抜群の運動神経の持ち主だったとのこと。くつ
元々興味のあったボクシングは中学時代に始め、生来の格闘センスを発揮してメキメキと頭角を現す。
亨栄高時代に国体やインターハイに出場し、アマチュアとして名の知られる存在になるが、本人はプロ志向が非常に強く、なんと高校在学中の昭和59年11月に松田ジムからプロデビュー。
高校生ボクサーとして注目を集める。演劇
デビュー後5連続KOと小気味のいい攻撃ボクシングで人気も上々。
昭和61年3月には、達城広光に1回KO勝利で全日本J・バンタム級新人王を獲得。
バンタム級では、長らくライバル関係となる高橋ナオトが、畑中とともに18歳で新人王に輝いた。
高橋と出世競争をするかのごとく破竹の勢いで勝ち進む畑中は、昭和62年2月、早くも日本J・バンタム級王座に挑戦。
実力者の丸尾忠を3回KOに下し、10代の日本王者誕生となる。手(チョキ)
ほぼ同時期に日本王者に並び立った畑中と高橋は、驚異の10代と称され、常に比較されながら日本ボクシング界のスターダムを駆け上がっていく。
畑中は、日本王座を1度防衛後に返上。
世界挑戦のウエイティングサークルに入るが、チャンスは早々に訪れる。
昭和63年9月、WBC世界J・バンタム級王者ヒルベルト・ローマン(メキシコ)への挑戦が決定。
ローマンは、渡辺二郎から王座を奪った曲者王者であるものの、年齢的に下り坂と考えられていたため、勢いのある畑中の勝ち目も十分との前評判であった。
しかし、百戦錬磨のローマンはやはり容易な相手ではなかった。
入れ込むあまり前がかりになる畑中を余裕を持っていなし、細かいパンチをコツコツ当ててペースを握ると、クリンチや時にはローブローも交えながら畑中の攻撃を分断する老獪さを発揮。
一旦攻撃を寸断されるとリズムがまるで狂ってしまう欠点を露呈した畑中は、毎回のようにポイントを失い、屈辱を感じながら12ラウンド終了のゴングを聞く。
結果は大差判定でローマンの勝利。
大きな挫折を味わい、大いにへこんだ畑中だったが、生来の負けじ魂に火がつき、ほどなく階級を上げてのカムバックを決意。
天狗の鼻を折られたことを自覚し、自ら望んでハードなカムバック路線を歩むことになる。
平成元年1月には、カムバック初戦でいきなりアジア屈指の強豪である李東春(韓)と対戦。
苦しみながらも10回判定勝利で見事復帰戦を飾る。
ちなみに李は、のちにグレート金山のリングネームで日本王者として長らく君臨することになる名選手である。
同年9月には、これまた韓国の強豪、呉張均と対戦し、10回引き分け。
世界レベルの強豪との対戦で、畑中には着実に筋金が入っていく。
その後順調に勝ち進んだ畑中に、世界挑戦のチャンスが再び訪れる。
平成3年2月、WBC世界J・フェザー級王者ペドロ・デシマ(亜)への挑戦が決定。
ハードパンチが売り物の王者を相手に予想は不利とされたが、打ち合い望むところの畑中は気合十分でリングに上がる。ダッシュ(走り出すさま)
開始早々から真っ向勝負で挑んだ畑中だったが、初回に王者のワンツーをまともにヒットされてダウン。
王者の猛攻で大ピンチに陥ったものの、なんとか追撃をしのいだ畑中は、4回に反転攻勢に出る。
スタミナ切れで、やや動きが緩慢になった王者を左フック、右ストレートでダウン。
さらに立て続けに3度のダウンを追加すると、畑中は勝ったと思ったのか、リング上ででんぐり返し。射手座
しかしフリーノックダウン制のWBCなので、そこでは試合は終わらず。
一息ついてしまったが、試合の趨勢はもはや変わらなかった。
8回に通産6度目のダウンを奪うと、レフェリーはついに試合をストップ。
畑中は、世界の頂点を極めた喜びを全身で表したものだった。ぴかぴか(新しい)
イキの良い王者誕生に周囲の期待も大いに高まったが、初防衛戦で落とし穴が待っていた。
元王者ではあったが、年齢的に比較的イージーな挑戦者と思われたベテランのダニエル・サラゴサ(メキシコ)を相手に、一進一退の乱打戦を展開。
憎らしいほどクリンチワークが巧みで手数の多いサラゴサは、イージーな相手では決してなく、豊富なキャリアを持つ老獪な強敵だった。
選択試合ながら結果的に厳しいマッチメークとなってしまった。
それでも畑中は持ち味の積極性を発揮し、サラゴサをロープにつめてひたすら打ちまくる。
見応えのある打ち合いはKO決着には至らず、試合終了のゴングが鳴る。
管理人的に若干畑中優位の印象だったが、判定は2−1でサラゴサを支持。
陣営はこの判定結果に納得せず、WBCへ提訴。
サラゴサとの再戦を熱望していたが、畑中は先の激戦で眼疾を患ってしまったとのこと。
未練を残しながらも、カムバックすることなくやむなく引退することと相成った。

ストイックさが好感されるボクシング界において、畑中はあえて豪快で奔放なキャラクターを売り物にした。音楽
ライバルの高橋ナオトは、畑中とは逆にストイックさをファンに支持され、当時の人気面では畑中を上回っていたと思う。
遊び好きを広言し、オールドファンの反感を買うこともあった畑中だが、ボクシングに手抜きが一切なかったことは周囲の人間ならば誰でもわかっていたこと。
才能におごることなく、進化を続けて世界王者に登りつめた努力の人である。位置情報
現在は、畑中ジム会長にして中日本ボクシング協会会長。
将来を嘱望される指導者だ。
posted by ティト at 01:07| 岩手 ☀| Comment(6) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月19日

オルズベック・ナザロフ

オルズベック・ナザロフ(協栄ジム)
WBA世界ライト級チャンピオン
生年月日:昭和41.8.30
ニックネーム:グッシー
戦績:26勝19KO1敗


協栄ジムから勇利に続いて世界のベルトをつかんだ旧ソ連出身のボクサーで、日本ではガッツ石松以来2人目の世界ライト級王者である。手(チョキ)
勇利・アルバチャコフ、スラフ・ヤノフスキーらいわゆるペレストロイカ軍団と呼ばれた選手の中で、ナザロフの知名度はなぜか今ひとつの印象だったが、テクニカルなボクシングが身上の勇利とヤノフスキーに比べるとナザロフのファイトスタイルは非常に好戦的で、管理人の中では当時お気に入りの選手であった。

ナザロフは、欧州ライト級王者のアマチュア実績を引っさげて勇利らとともに平成元年に来日。
名門協栄ジムに入門する。くつ
協栄ジム出身で元世界J・フライ級王者の具志堅用高氏に風貌が似ていたことから、グッシー・ナザロフのリングネームで平成2年2月にプロデビュー。
アマチュア実績はダテではなく、日本レベルでは頭抜けた実力でKOの山を築く。パンチ
平成3年4月には、デビュー6戦目で日本ライト級王座へ挑戦。
八木賢治を4回KOに下して王座獲得。
早足でステップアップを目指すナザロフ陣営は、日本王座は2度防衛後に返上し、平成4年5月にOPBFライト級王座へ挑戦する。
タフな王者大友巌を相手にKOは逃したものの、文句なしの12回判定勝利で戴冠。
いつでも世界を狙える力はあったものの、世界ライト級王座挑戦のマッチメークは容易でないことから、OPBF王座の防衛を続けて世界ランクを押し上げつつ、じっくりチャンスをうかがうこととなる。
東洋レベルでも敵なしのナザロフは、問題なく防衛を重ね、世界上位ランカーとしての地位を着々と固めていく。右斜め上
OPBF王座は5度防衛後に返上。
待望の世界戦は平成5年10月に実現する。
相手はWBA世界ライト級王者ディンガン・トベラ(南アフリカ)。
敵地開催で「ソウェトの薔薇」と称される地元の英雄を相手に苦しい戦いが予想されたが、ナザロフは敵地でひるむようなタマではなく、ゴングが鳴ると勇敢に王者を追い回し、応戦するトベラと激しい打撃戦に突入する。ダッシュ(走り出すさま)
4回にトベラの右カウンターでダウンを喫したナザロフだが、徹底的なボディ攻撃に活路を見出し、徐々に王者のスピードとスタミナを奪っていく。
終盤は一方的なナザロフペースで、10回には左ボディでダウンを取り返す。
KOが期待されたが、経験豊富なトベラはなんとか試合終の了ゴングまで逃げ切り、勝負は判定へ。
ナザロフ優位の試合も、敵地判定への一抹の不安がよぎったが、結果は3−0でナザロフを支持。ニューヒーロー誕生となった。ぴかぴか(新しい)
翌年3月のトベラとの敵地再戦も12回判定で制したナザロフは、王座獲得がフロックではないことを証明。
平成6年12月には、またも敵地で人気者のジョーイ・ガマチェ(米国)に2回KO勝利で2度目の防衛成功。
玄人筋に高い評価を得るナザロフだったが、派手なパフォーマンスを好まない実直な性格が興行面ではマイナスで、実力に比してなかなか人気が伴わず。
試合枯れ傾向が顕著となり、平成8年4月にアドリアヌス・タロケ(インドネシア)に4回TKO勝利で5度目の防衛に成功すると、ビッグマッチを求めるナザロフの希望をかなえる形で協栄ジムからフランスのアカリエス・プロモーションへと移籍となる。
平成9年5月、移籍後の初戦となる6度目の防衛戦で指名挑戦者リーバンダー・ジョンソン(米国)と対戦したナザロフは、強敵を相手に7回TKO勝利。
改めて実力者ぶりを証明する。
さらなる長期政権が期待されたが、実はトベラとの第2戦が原因で網膜はく離を患い、だましだましの防衛戦が続いていたとのこと。
平成10年5月、7度目の防衛戦に臨んだナザロフは、長身のジャン・バプティスト・メンディ(仏)の長いリーチに距離感が合わず。
最終回にKOチャンスを掴んだものの、時間が足りず試合終了のゴングが鳴り、判定は3−0でメンディの勝利。
再起を模索したナザロフだったが、目の状態は想像以上に悪く、眼疾の悪化を理由に引退することとなった。

現在の日本で、ナザロフの名を知らないファンは結構多いらしい。
現役時代の知名度も今ひとつの印象で、実力者ながら待遇は不遇だった。
協栄ジム在籍時代は、同階級のジムメイトだったミゲル・アンヘル・ゴンザレス(東京三太)の評価が高く、ナザロフは2番手のレッテルを貼られた。
WBC世界ライト級王者となったゴンザレスとWBA王者ナザロフは、同時期に世界王者に君臨していたこともあって統一戦が期待されたが、結局夢のカードのまま実現せず。
世界的な知名度はゴンザレスが上だったように思うが、統一戦が実現していれば管理人はナザロフが有利だろうと当時思っていた。
文句なしに日本が世界に誇る一流王者である。演劇
ちなみに、具志堅用高氏を連想させる「グッシー」の愛称は、ナザロフ自身はお気に召さなかったとのこと(笑)。
しかしながら、具志堅氏のようなエキサイティングな名選手であることに間違いはないであろう。グッド(上向き矢印)
posted by ティト at 22:45| 岩手 ☔| Comment(5) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月12日

勇利・アルバチャコフ

勇利・アルバチャコフ(協栄ジム)
WBC世界フライ級チャンピオン
生年月日:1966.10.22
ニックネーム:精密機械
戦績:23勝16KO1敗


現在のプロボクシング界の中で、旧ソ連勢の躍進は著しい。グッド(上向き矢印)
共産主義の旧ソ連時代は、優秀な選手がアマチュアで素晴らしい成績を残してはいたが、当然のことながら長らくプロの世界王者は生まれなかった。
ペレストロイカ政策から民主化への動きが高まり、ソ連崩壊を経て優秀な人材が世界に羽ばたくようになると、次々に世界王者が生まれ、またたく間にプロボクシング界の勢力図が一変した感がある。NEW
じゃあ誰が旧ソ連出身で最初の世界王者なの?という話になるが、それが何を隠そう(誰でも知ってるか(笑))、勇利・アルバチャコフなのである。
当時は輸入ボクサーという言葉が流行となっていたが、紛れもなく日本のジムが輩出した日本発の世界王者だ。exclamation×2

勇利は、アマチュアの世界王者の実績を引っさげて平成元年に来日。
トレーナーのジミン・アレクサンドル氏や、同じくソ連で抜群のアマチュア実績を持つオルズベック・ナザロフ、スラフ・ヤノフスキーらとともに協栄ジムへ入門する。手(グー)
入門当初から実力は他を圧倒していたそうで、平成2年2月にプロデビューすると、対戦相手を全く問題とせずKOの山を築いていく。ダッシュ(走り出すさま)
1年間で6連続KO勝利と次元の違う強さを見せ付けた勇利(当時のリングネームはチャコフ・ユーリ)は、平成3年3月にピューマ渡久地の持つ日本フライ級王座への挑戦が決定。
渡久地は勇利同様に当時飛ぶ鳥を落とす勢いの若きホープで、無敗同士の両者の対戦はファン垂涎の好カードであった。イベント
しかし、試合を目前にして渡久地が所属ジムとのトラブルで失踪。
試合は中止され、幻の好カードとなってしまった。
とばっちりを受けて日本王座挑戦は1試合延びてしまったが、平成2年7月、渡久地が剥奪された王座を水野隆博と争った勇利は、うっ憤を晴らすような1回KOの圧勝で日本フライ級王座を獲得。手(チョキ)
日本王者だけに収まらない実力を見せつけた勇利に、陣営は早期世界挑戦を模索。soon
日本王座は1度防衛後に返上し、世界戦へのウエーティングサークルに入る。
待望の世界挑戦は平成4年6月に実現。
相手はWBC世界フライ級王者ムアンチャイ・キティカセム(タイ)。
確かこの試合は人気俳優のミッキー・ロークのエキシビションマッチの前座に組まれたもので、大勢の女性ファンが主にローク目当てに会場に足に運んだはず。演劇
何はともあれ、大勢の観客の前で世界戦の舞台に立った勇利(世界戦時のリングネームはユーリ・海老原)は、軽快なフットワークと綺麗に伸びる右ストレートで王者を圧倒。
玄人をうならせるハイグレードなボクシングを見せ付けた末、8回KOで世界の頂点を極める。位置情報
長期政権間違いなしと誰からも太鼓判を押される見事な戴冠劇だった。ぴかぴか(新しい)
順風満帆に見える勇利のキャリアだが、ストレート主体で教科書のお手本のような綺麗なボクシングを見せる勇利は、対戦相手から研究されやすい傾向があり、意外に防衛戦は苦戦続き。
それでも伝家の宝刀右ストレートの威力で並み居る強敵をたじろがせ、着々と防衛記録を伸ばしていく。雷
平成5年3月には、敵地タイで前王者ムアンチャイを9回TKOに下して2度目の防衛。
平成6年8月にはウーゴ・ソト(亜)に8回KO勝利で5度目の防衛。
要所で鮮烈な勝利を飾り、勇利の評価は世界的に高まっていく。右斜め上
平成8年8月、9度目の防衛戦で、かつて対戦が直前でキャンセルされたことのある渡久地隆人(ピューマ渡久地)との因縁の対決が実現。
長らく世界のトップで戦ってきた勇利と長いブランクを作ってしまった渡久地との差は歴然で、9回TKOの勇利の圧勝で決着。
しかし、この試合で右拳を骨折し、痛恨のブランクを作ることとなる。
平成9年11月、2ケタ防衛をかけて暫定王者のチャッチャイ・ダッチボーイジム(タイ)と対戦。
2年前に判定で1度勝っている相手も、1年3ヶ月のブランクの影響は大きく、いいところなく12回判定負け。
アマチュア時代から長らく世界のトップレベルで戦い続けた疲労を自覚し、この試合後すぐに引退発表となった。

クラブ制を採用する日本のボクシング界では、長期滞在の難しい外国人がジムに所属すること自体が珍しく、一昔前まで国際スポーツながら閉鎖的な環境が構築されてしまっていた。
そんなわけで、勇利らの活躍を輸入ボクサーだからと揶揄する向きも多かったが、ハイレベルのボクシングを間近で見るにつれて徐々に周りの意識も変化。ひらめき
生けるお手本として彼らから学ぼうとする若いボクサーが急増していった。ペン
また、根性主義偏重の日本の練習環境の中で、旧ソ連仕込みの科学的トレーニングで勇利らを鍛えるジミン・アレクサンドルトレーナーの練習法も日本の指導者に大きな影響を与えた。
協栄ジムの先代会長だった金平正紀氏(故人)は、当時のボクシング界きってのアイデアマン。アート
日本ボクシング界の切磋琢磨を促すために積極的に外国人ボクサーを受け入れ、国内リングの活性化に尽力した功労者だ。メモ
あらゆる人間に門戸が開かれていることがボクシングの最大の長所。
他のスポーツで見られる外国人枠なるものは設けず、今後もハングリーな選手が夢を掴める場であってほしいと願う。晴れ
posted by ティト at 21:40| 岩手 🌁| Comment(9) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月26日

大橋秀行

大橋秀行(ヨネクラジム)
ニックネーム:150年に1人の天才
神奈川県横浜市出身
WBC、WBA世界ストロー級チャンピオン
生年月日:昭和40.3.8
戦績:19勝12KO5敗


1980年代終盤は、日本ボクシング界にとって暗黒の時代だったと言われることがある。
世界挑戦しては何度も失敗を繰り返し、日本人の世界王者不在の時期が長らく続いたからだ。
それでも時はバブルの好景気。ふくろ
ホープには次々にチャンスが与えられるある意味幸運な時代でもあった。
そんなこんなで実力不十分な日本人挑戦者が世界の壁に跳ね返されること連続21度。
国民は、連敗ストッパーを今か今かと待望していたものだ。
そしてついに現れた連敗ストッパーが、「150年に1人の天才」大橋秀行だった。手(チョキ)

大橋は、横浜高時代にインターハイでモスキート級王者に輝くなど、抜群のアマチュア実績の持ち主。
専修大に進学したものの、本人のプロ志向が強く、中退してスカウトを受けたヨネクラジムに入門することとなる。
生来のハードパンチの持ち主で、米倉会長は大橋の才能にベタ惚れ。
具志堅用高の売り出し文句だった「100年に1人の天才」を超える「150年に1人の天才」と表現して大橋を絶賛したものだった。るんるん
デビューは昭和60年2月。
米倉会長は、大橋を少しでも早く世界王者にするべく、キャリア早々に強敵をぶつける方針で大橋を鍛えていく。
昭和60年8月にデビュー3戦目で元世界ランカーの倉持正と対戦した大橋は、見事な初回KOで期待に応える。
ファンの間でも大橋を将来の世界王者として期待する声は数多。
しかし、昭和61年3月の5戦目でのちに世界王者となる金奉準(韓)の手数の多さに後れを取り、10回判定負けで初めての挫折を味わう。
これで回り道を余儀なくされると思われたが、米倉−大橋の師弟コンビは意気軒昂。
同年6月に野島嘉章を10回判定で下して日本J・フライ級王座を獲得すると、その王座は返上して次戦での世界挑戦を発表。
かつてプロ8戦目での世界王座最短奪取記録に挑んだことのある米倉会長は、日本新記録となるプロ7戦目での世界王座奪取の夢を大橋に託したのである。演劇
その新記録を目指す世界挑戦の相手となったのが、「韓国の虎」と称されるコリアン・ファイター、WBC世界J・フライ級王者の張正九。
世界的評価の高い張が相手で、しかも会場は敵地。
厳しい戦いが予想されたが、自分のパンチ力に自信をみなぎらせる大橋は、強気なコメントを連発して韓国へと飛び立つ。
昭和61年12月に行われた試合は、張圧倒的有利の前評判通りにはならずに大橋が健闘。
序盤から真っ向勝負で一進一退の打ち合いとなる。
地元の英雄である張を強打でたじろがせるシーンもあったが、最後は手数と馬力に勝る張に押し切られて5回TKO負け。
惜しくも日本新記録達成はならなかったものの、大橋の素晴らしい将来を予感させる内容となった。
すぐにカムバックして進撃を始めた大橋は、昭和63年1月、張への挑戦権を賭けて当時ライバルと目されていた喜友名朝博と日本J・フライ級タイトルマッチで激突。
実力者の喜友名を相手に際どい勝負となったが、見栄えの良い強打でポイントを押さえて10回判定勝利で2度目の日本王座獲得。
張との世界戦が内定したことから、日本王座はまたも防衛戦を行わずに返上となる。
同年6月、待ちに待った張へのリベンジの舞台は東京後楽園ホール。
満を持した地元開催に、大橋はかつてないほどの気合を漲らせてリングへ上がる。
試合は、初戦に勝るとも劣らない大熱戦。
手数の張とパワーの大橋の迫力十分の打ち合いとなる。
先にダウンを喫した大橋だが、その後吹っ切れたように猛反撃。
右カウンターで名王者張をダウン寸前のグロッギーに追い込み、会場は興奮のるつぼ。モータースポーツ
しかし、タフな張が盛り返すと大橋はついに力尽き、8回TKO負けで雪辱ならず。
両者死力を尽くした好勝負であった。ぴかぴか(新しい)
痛恨の敗北を喫した大橋だが、実力が世界レベルにあることは自他ともに証明されたわけで、世界王座への野望は一向に衰えず。
当然のようにカムバックしてKO勝利を積み重ねていく。
陣営の方針でよりチャンスの大きいストロー級へ転向した大橋に、3度目の世界戦の機会が訪れたのは平成2年2月。
会場は後楽園ホールで、相手はWBC世界ストロー級王者の崔漸煥(韓)。
宿敵張に比べると実力的に数段劣る相手だったことから、戦前の予想は挑戦者の大橋が有利との報道が多かったように記憶している。
冒頭に言ったように日本人の世界挑戦の連敗が続いていた時期であり、今度こそ不名誉な連敗記録はストップされるだろうという期待満々の記事がスポーツ紙だけにとどまらず一般紙でも大々的に見られた。ペン
多くの国民が期待する中で行われた試合は、期待通りに大橋のパンチ力が試合を支配。
そして9回、強烈な左ボディで2度のダウンを与えた大橋の豪快なKO勝利となった。パンチ
新王者誕生に後楽園ホールは万歳三唱。
多くの国民が歓喜の雄たけびを上げたことだろう。音楽
日本ボクシング界の救世主となった大橋に、ファンは長期政権を期待。
同年6月の初防衛戦では、井岡弘樹から王座を奪ったことのあるナパ・キャットワンチャイ(タイ)に明白な12回判定勝利。
ここまでは順調だったのだが、2度目の防衛戦で最強の挑戦者の呼び声高いリカルド・ロペス(メキシコ)との指名試合が長期政権への山場とされた。
同年10月に行われたこの試合は、初回に大橋が単発強打を決めた以外は一方的なロペスのペースで進み、予想外の5回TKOの惨敗で王座陥落。
ロペスは周知のとおりスーパー・チャンプへの道を歩むこととなる。
完膚なきまでの完敗に精神的なショックが心配されたが、大橋はロペスへの雪辱を目指して力強く再起。
前哨戦を重ねて世界ランクを維持しながら、いつでも世界戦のリングに立てるようにと日々練習に明け暮れ、向上心にも余念なし。
ロペスとの再戦熱望を公言していた大橋だったが、陣営はWBA王座に照準を定める。
平成4年10月、崔煕庸(韓)の持つWBA世界ストロー級王座への挑戦が決定。
2年ぶりの世界戦となる。
試合は、頭をぶつけながら突進する崔を大橋が単発強打で迎え撃つ展開。
相手の手数とバッティングに苦しみ、額を大きく腫らした大橋だったが、要所で有効打を決めて12回判定勝利。
見事な2度目の世界王座奪取で、「不死鳥(フェニックス)」の愛称がすっかり板についた。晴れ
宿敵ロペスの対抗王者となった大橋は、近い将来の統一戦を熱望する。
しかし、その前に初防衛戦で落とし穴が待っていた。
平成5年2月、指名戦ではあったが伏兵と思われていたチャナ・ポーパオイン(タイ)によもやの判定負け。
ほとんど手数の出ない不完全燃焼の完敗だった。
この試合後に左目の網膜裂孔が発覚。
ボクサーの生命線である目を傷めてしまったことから、不屈の不死鳥もついに引退を決意することとなった。

手数が最重要視されていた軽量級の歴史の中で、単発強打を武器に世界の頂点を極めた大橋のボクシングスタイルはある意味異質だったと思う。
管理人は正直言うとイライラしながら大橋の試合を見ることの方が多かったが(笑)、腰の入ったカウンター一発で唐突にKOするシーンは痛快で、時に美しささえ感じたものだ。ひらめき
引退後の大橋は、平成9年に地元横浜で大橋ジムを開設。
川嶋勝重を世界王者に育て上げるなど、短期間で目覚しい成果をあげている。グッド(上向き矢印)
現在も実力十分の選手が多数在籍し、すでに名門ジムの雰囲気が漂う。
ボクシングスタイルには無骨なイメージのあった大橋氏だが、指導者としての力量は多くの関係者から高い評価を得ているとのこと。
聡明で弁も立つボクシング界きっての理論派だ。
そのリーダーシップが評価され、平成19年には並み居る重鎮を押しのけて東日本ボクシング協会会長に選出されるなど、今後のボクシング界を背負っていくであろう将来有望な指導者である。右斜め上
posted by ティト at 23:08| 岩手 ☀| Comment(10) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月26日

レパード玉熊

レパード玉熊(国際ジム)
ニックネーム:じょっぱり王者
青森県青森市出身
WBA世界フライ級チャンピオン
生年月日:昭和39.1.25
戦績:27勝13KO5敗1分


長身でモデルのような細身の体格ながら、しつこいインファイトが身上。
時に挫折を経験しながらコツコツと技術を積み重ね、ついに世界の頂点を極めた漫画の主人公のようなボクサーである。演劇

玉熊は、青森商入学後にボクシングを始める。
長身のアウトボクシングで頭角を現し、3年時にはインターハイのライト・フライ級で準優勝。
その時に優勝したのは後にIBF世界バンタム級王者となる新垣諭だった。
その後、高校時代の実績を引っさげて法政大学へ進学。ビル
しかし、部員の不祥事により、なんと入学早々にボクシング部が休部になる。
活躍の場を失った玉熊は途方にくれていたとのこと。
そんな折、国際ジムの高橋美徳会長にプロ入りを誘われる。
自分を高く評価してくれる高橋会長に心を動かされた玉熊は、思い切って大学を中退。
プロで世界王者を目指すこととなった。ひらめき
デビューは昭和58年5月。
パワー不足を指摘されながらも、持ち前の巧さを発揮して同年12月には全日本J・フライ級新人王を獲得。手(チョキ)
順調なキャリアを歩むかに思えたが、昭和59年5月、正木高浩に8回判定で敗れ、7戦目で初黒星。
同年12月には喜友名朝博に10回KO負け、翌年3月には横沢健二に8回判定負けをと痛恨の連敗を喫する。
喜友名、横沢とのホープ対決に敗れた玉熊の評価は急落。
このまま一気に意気消沈するかと思われたが、玉熊は、減量苦がなければ自分の実力を十分に発揮できると確信していた。
172cmの長身ということもあり、過酷な減量を強いられるL・フライからフライ級に階級を上げ、再出発することとなる。くつ
階級アップの効果が現れてパワー不足が解消されると、KO勝利も増えだし、徐々に本領発揮。グッド(上向き矢印)
昭和62年2月には、西川浩二を10回判定に下して日本フライ級王座を獲得。手(グー)
とんとん拍子に4度防衛して国内敵なしを証明すると、平成元年3月には念願の世界挑戦が実現。
相手はWBC世界フライ級王者の金容江(韓)。
予想は玉熊不利が圧倒的だったが、地元青森での世界戦でベストコンディションに仕上げてリングへ上がる。
試合は判定にもつれこみ、接戦ながら玉熊のうまさが若干上回ったように見えたが、勝者は金。
手数が足りず、確実にラウンドを奪い取れなかったことが僅差の勝負をモノにできなかった原因となった。
しかし、この反省は2度目の世界戦に生きることとなる。
金戦後、3度の前哨戦を経て、平成2年7月、今度はWBA世界フライ級王者の李烈雨への挑戦が決定。
玉熊は、ファイタータイプの李に対して接近戦で対抗。ダッシュ(走り出すさま)
もみ合いの多い消耗戦となったが、細かい連打を確実に当ててくる玉熊のしつこさに李は徐々に失速を見せる。
そして迎えた10回、戦意喪失気味に2度ダウンを喫した李に見事なTKO勝利。ぴかぴか(新しい)
ダウンの経験のないタフな王者を打ち倒しての歓喜の世界王座奪取となった。位置情報
進化を続ける玉熊は、初防衛戦で難敵のヘスス・ロハス(ベネズエラ)と対戦。
予想通りの苦戦となったが、終始ペースは渡さず。
判定は不可解なドローとなったものの、虎の子のタイトルをしっかりとキープ。
長期政権の期待もかかる王者に成長する。右斜め上
しかし、2度目の防衛戦で落とし穴。
平成3年3月にエルビス・アルバレス(コロンビア)と対戦した玉熊は、打って離れてクリンチを繰り返すアルバレスの老獪なボクシングに連打を封じられ、余力を残したまま12回終了のゴングを聞く。
判定はどちらに転んでもおかしくなかったが、手数の少なさが響き、僅差で勝者アルバレスのコール。
再び世界を取る力は十分にあると思われた玉熊には当然カムバックが期待されたが、アルバレス戦後に眼疾が発覚。
左目の網膜はく離で手術を受けることとなる。
手術は成功したものの、当時の日本では、網膜はく離を発症した選手がリングに上がることは許されなかったため、未練を残しつつ引退を余儀なくされた。

スマートな印象のある玉熊だが、挫折を味わう度になにくそとひたすらトレーニングに打ち込んで進化を遂げた選手で、驚くほど芯の強い男だったそうだ。パンチ
努力は必ず報われことを体現した苦労人である。
岩手県人の管理人は、お隣の青森県から世界王者が生まれて羨ましく思ったものだ(笑)。
現在の玉熊は、平成7年に東京都千代田区で開設した「レパード玉熊ジム」の会長として師弟世界王者実現に熱意を注いでいる。
同じ東北人として玉熊氏の今後の活躍が非常に楽しみだ。わーい(嬉しい顔)
posted by ティト at 23:59| 岩手 ☔| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月29日

平仲明信

平仲明信(沖縄ジム)

ニックネーム:ウチナー・チャンプ
沖縄県島尻郡具死頭村出身
生年月日:昭和38.11.14
戦績:21勝19KO2敗


ボクシングで世界王者を志す地方出身の多くの若者は、上京して大手ジムの門を叩く例が多いだろう。
だが、平仲はあくまで故郷にこだわり、沖縄のジムから初めて世界王者に登りつめた苦労人である。位置情報

アマチュアの名選手としても有名な平仲だが、ボクシングを始めたのは意外と遅く、南部農林高校3年生の時。
本当かどうかはわからないが、故郷の英雄でもある具志堅用高の世界王座陥落をテレビで見た後、ボクシングを始めることを決意したのだという。ひらめき
もともと腕っ節が強く、喧嘩は負け知らず。
短期間でメキメキと上達した平仲は、その年のインターハイに出場して見事優勝。
日本大学農獣医学部に進学後は、持ち前のハードパンチに技術も伴い、どんどん頭角を現す。
昭和53年には全日本L・ウェルター級で優勝。
その勢いを駆って同年にアジア大会でも優勝し、目標としていたロサンゼルス五輪の切符を獲得。スポーツ
昭和54年の五輪では、2回戦敗退で念願のメダル獲得はならず。
元々プロ志向が強く、次の五輪まで待つ気持ちはなかったことから、大学卒業前にプロ入りを決意することとなる。
アマチュアでは43勝37KO・RSC5敗の好戦績で、アグレッシブな攻撃スタイルもプロ向き。右斜め上
この逸材に東京の大手ジムからも勧誘があったそうだが、本人は故郷の沖縄から世界を目指したい気持ちが非常に強く、地元の沖縄ジムからプロデビューすることとなった。
昭和60年3月のデビュー戦では、いきなり日本ランカーの横井一三と対戦し、鮮烈な初回KO勝利で周囲の度肝を抜く。
デビュー4戦目の昭和61年1月には、早くも日本J・ウエルター級王座に挑戦。
田名部雅寛を6回KOに下して史上最短キャリアで日本王座を獲得する。
平仲の圧倒的な強さに世界への早期挑戦も期待されたが、地方のジムから世界的な人気を誇る中量級の世界戦をプロモートすることは容易ではなく、日本タイトルを防衛しながらじっくりとチャンスをうかがうこととなる。
KOの山を築きながら、日本王座の防衛は9度。
世界ランク1位の地位まで上りつめ、平成元年4月、ようやく指名挑戦者としてWBA世界J・ウエルター級王者ファン・マルチン・コッジ(亜)への挑戦が実現する。
当時の日本はバブル期で、多くの日本人が地元での世界戦を組んでもらえたものだが、平仲は敵地イタリア(コッジはイタリア系)での挑戦。
しかし、アマチュアで国際経験豊富な平仲は、意欲満々で世界戦のリングへ上がる。音楽
ラティゴ(鞭)と称される左強打を持つコッジと序盤から激しい打ち合いとなったが、速攻型の平仲は出だし好調で、3回には痛烈なダウンを奪い、追い討ちの2度目のダウンを奪った時にはコッジは半失神状態。
誰もが平仲の王座奪取を確信したが、完全にグロッギーのコッジをなんとカウント途中でレフェリーが抱え起こし、そのまま試合再開でゴングに逃げられる。
この試合のレフェリーは初めから平仲に不可解なダウンや減点を課すなど、明らかに不公平なレフェリングを行った。
4回以降、打ち合いを避けて守りに入ったコッジを結局仕留めることができず勝敗は判定へ。
不可解なダウンや減点が響いたことから、3−0で勝者はコッジ。
あからさまな地元びいきにより、世界初挑戦でタイトルを奪取することはできなかった。
とはいえ、評価を落とす負け方ではなく、世界ランクはすぐに1位に復帰。
いつ世界再挑戦が決まってもおかしくなかったのだが、いかんせんジムには海外とのコネもなく、マッチメークに一苦労。
ようやくコッジへの再挑戦が内定した矢先、オーバーワークで体調を崩すなど不運も重なり、試合枯れ状態に陥る。
何度か世界戦が浮上しては消える状態が続いたものの、世界ランク1位の指名挑戦権が効き、平成4年4月、ついに2度目の世界戦が決定する。手(チョキ)
相手はWBA世界J・ウエルター級王者エドウィン・ロサリオ(プエルトリコ)。
やはり地元で挑戦することはできなかったが、メキシコシティにおいてメキシコの英雄フリオ・セサール・チャベスのWBC世界J・ウエルター級タイトルマッチ防衛戦のセミ・ファイナルという大舞台で戦う栄誉を得る。イベント
2階級制覇王者ロサリオは、ピークは過ぎたとはいえ、ライト級時代は名王者の誉れが高い選手で、予想は圧倒的に平仲不利。
しかし平仲は自信満々のコメントを連発して海を渡る。飛行機
多くの日本人は海外の大舞台に萎縮してしまいがちだが、平仲は一世一代の大舞台を楽しむがごとく、リラックスした表情でリングに上がる。
しかし、ゴングが鳴ると表情は一変。
鬼のような形相でロサリオに襲い掛かる。ドコモ提供
打ち返す暇もない嵐の連打にさらされ、ロサリオはロープ際に詰まって滅多打ち。パンチ
防御できないほどのダメージを受けたロサリオを見て、レフェリーはストップを宣告。
突然攻撃を止められて不満気な表情を見せた平仲だったが、それがTKOだとわかると歓喜のガッツポーズ。るんるん
初回わずか92秒の電撃王座奪取となった。グッド(上向き矢印)
当時管理人もこの快挙に大喜びで、翌日のスポーツ新聞を買い漁った記憶がある(笑)。
ワイドショーやスポーツ番組にも引っ張りだこだったわけだが、海外奪取を達成して堂々としている平仲の精神力の図太さに感心したものだった。
長期政権への自信を見せる平仲だったが、平成4年9月の初防衛戦で思わぬ落とし穴。
ランキング下位で比較的危険の少ない相手と見られていたモーリス・イースト(比)によもやの11回逆転TKO負け。
この試合は、平仲が優位に試合を進めてはいたものの、打たれながらも柔軟な体を利かせてダメージを逃がすイーストを仕留められず、逆にコツコツ当ててくるイーストの軽いパンチを平仲がまともにもらってダメージが蓄積する展開。
ポイントは平仲がリードも、危うさを感じながら見ていたところ、11回にイーストのコンパクトな左ストレートで平仲がダウン。
耐えられないほど強烈な一撃ではないように見えたが、ダメージの蓄積は甚大で、立ち上がった平仲の足元がふらつくのを見たレフェリーが試合をストップ。
番狂わせに管理人もテレビの前で呆然だった。
オーバーワークが原因で試合前から体調が今ひとつだったようで、そんな状態でリングに上がったせいか、試合後の検査ではなんと脳内出血が発覚。
現役続行を強く望んだ平仲だったが、脳内出血が発覚した選手にライセンスが認められるわけもなく、未練を残したままの引退となった。

地元沖縄のジムから世界王者となった平仲だが、その過程には相当な苦労があったらしい。
時には平仲本人が外国人相手に身振り手振りを交えてマッチメークの交渉をしていたとのこと。手(パー)
大手テレビ局のバックアップも期待できない地方のジムから世界を目指す困難さは想像に難くない。
その困難さを受け入れ、地元愛を貫いて掴んだ王座の価値はまばゆい光を放っている。ぴかぴか(新しい)
実直な平仲は、練習においても適度な手抜きをすることができず、体調を崩すこともしばしば。
この辺は先輩の浜田剛史似か。
現在の平仲は、平成7年に沖縄県豊見城市に開設した平仲ボクシングスクールジムで後進の指導にあたっている。
ボクシング以外のプロ格闘技の選手からも指導を依頼されるなど、現役時代に培った人脈と知名度に加え、自身の苦労した経験がジム経営にも生きているそうだ。
わかりやすい指導でなかなかの好評ぶりとのこと。
今後もボクシング界を大いに盛り上げてくれるであろう好漢である。わーい(嬉しい顔)
posted by ティト at 01:49| 岩手 ☔| Comment(5) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月05日

六車卓也

六車卓也(大阪帝拳ジム)
大阪府大阪市旭区出身
WBA世界バンタム級チャンピオン
ニックネーム:エンドレス・ファイター
生年月日:昭和36.1.16
戦績:26勝20KO3敗2分


世界戦になるとほとんどの日本人選手は手数が少なく、イライラしながら試合を見るファンも多いことだろう。
だが六車卓也は、エンドレス・ファイターのニックネームが示す通り、無尽蔵のスタミナと手数で多くの熱狂ファイトを繰り広げた激闘王だ。パンチ
管理人が大好きな選手の1人でもある

六車は、少年時代からボクシングに憧れがあったそうだが、高校卒業まではボクシングを始めるには至らず。
近畿大理工学部に進学し、大学1年の冬に意を決してボクシングを始めることとなる。
もともとプロ志向だったこともあり、アマチュアでは3戦しただけですぐにプロ転向。ダッシュ(走り出すさま)
大阪帝拳ジムから昭和56年4月にデビューとなる。
先輩の渡辺二郎のようにもともと運動センスが優れていたわけではなかった六車だが、渡辺に劣らぬボクシングの虫で、とにかく勉強熱心。ペン
強くなるための努力は惜しまなかった。
世界王者の渡辺を間近で見ながら練習を重ねた六車はメキメキと上達し、昭和57年2月には、杉谷満を6回判定に下して全日本フェザー級新人王を獲得。
その後もとんとん拍子に勝ち進み、昭和58年11月、岩本弘行に4回TKOで勝利して不敗の15連勝で日本J・フェザー級王座を獲得する。
日本王座の防衛を重ねつつ、昭和60年3月には東洋太平洋J・フェザー級王座を崔然甲(韓)と争うも、惜しくも12回判定負けで初黒星を喫する。
ここで意気消沈せず、ますます猛練習を重ねた六車は、日本王座を防衛しながら実力を蓄えていく。
日本王座は7度防衛。
昭和61年8月には、一度苦杯を喫した崔然甲を2回KOに下してリベンジ。手(チョキ)
着実に世界レベルの実力者としての地位を固め、ついに世界挑戦のチャンスを手に入れる。
当初はWBA世界バンタム級王者ベルナルド・ピニャンゴ(ベネズエラ)への挑戦が内定していたのだが、そのピニャンゴが突如王座を返上。
紆余曲折を経て、昭和62年3月、空位の王座を世界ランク2位のアサエル・モラン(パナマ)と争うことに決定する。
1階級落としての世界戦で、減量はきつかったものの、六車はしっかりとコンディションを整えてリングに上がる。くつ
ゴングが鳴ると、六車は精力的な手数で真っ向勝負を挑む。
打ち返しても全くひるまない六車に対し、モランは徐々に体力も戦意も喪失。
完全に失速したモランを5回に猛烈なラッシュで仕留め、六車は会心のKO勝利で念願の世界王座を獲得する。位置情報
ファイティング原田に続いて2人目となる世界バンタム級王者、“関西の星”渡辺二郎の後輩王者として大ブレークの予感があったが、王座は意外にも短命に終わる。
昭和62年5月、朴賛栄(韓)との初防衛戦で不運な王座陥落。
勤勉な六車はコンディション上々で試合に臨んだものの、3回に朴の強烈なバッティングでダウンし、優位に進めていた試合が一転苦境に。
ダメージを抱えながら粘ったものの、11回に力尽きて無念のTKO負け。
しかし、評価を落とす負け方ではなく、世界挑戦の機会はすぐに訪れる。
昭和63年1月、朴からタイトルを奪ったウィルフレド・バスケス(プエルトリコ)への挑戦が決定。
ハードパンチャーとして評価が高いバスケスに対し、六車は得意のラッシュ戦法で真正面からの打ち合いを展開。
さしものバスケスも六車の手数にやや打ち負け、ロープを背負うことが多くなる。
白熱した打ち合いは12回までに決着つかず、判定にもつれこむ。
多くのファンが六車の勝利を確信していたのだが、判定は無情にも三者三様のドローで王者の防衛。
管理人もこの判定には釈然としなかった記憶がある。水瓶座
カムバックは表明したが、減量がきつかった六車は、ベストのJ・フェザー級での世界挑戦を希望。
昭和63年10月、強豪の呼び声高いWBA世界J・フェザー級王者ファン・ホセ・エストラーダ(メキシコ)への挑戦が決定する。
この試合も大激戦。
エストラーダの強烈なボディブローで苦しい戦いを強いられながらも、猛然と打ち返して一進一退の打ち合いに突入。どんっ(衝撃)
度々連打で王者をたじろがせ、見せ場は作ったものの、4回にダウンを喫するなど、要所でエストラーダの強打が勝り、惜しくも11回TKO負けで2階級制覇はならず。
刀折れ矢尽きた末の、タオル投入による試合終了だった。
持てる力を出し尽くして敗れた六車は、この試合を最後に引退を表明することとなった。

エキサイティングなファイトでファンを熱狂させた六車だが、不運な敗北などで世界王者として長期政権を築くことができず、今ひとつブレークしきれなかった印象がある。
また、真面目な性格で、パフォーマンスやリップサービスが旺盛ではなかったため、マスコミの扱いも不当に小さかったような気がする。
だが、実力的には文句なしで、六車の試合の映像を今のファンが見ても大興奮すること間違いなし。exclamation×2
後に日本のリングで猛威をふるうことになるウィルフレド・バスケスに打ち負けなかった六車の火の玉ファイトは、エンドレス・ファイターの異名に相応しく、ファンとしても誇らしい。演劇
関西のリングは、渡辺二郎、六車卓也、辰吉丈一郎、長谷川穂積など、バンタム級前後に定期的に名選手が生まれているが、単純に見ていて面白い六車のボクシングが管理人は特に好きだ。
太く短くといった感じの、まさにボクサーらしいボクサーである。グッド(上向き矢印)
posted by ティト at 20:33| 岩手 ☀| Comment(8) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月28日

浜田剛史

浜田剛史(帝拳ジム)
沖縄県中城村出身
WBC世界J・ウエルター級チャンピオン
ニックネーム:昭和最後のストイック・ボクサー
生年月日:昭和35.11.29
戦績:21勝19KO2敗1無効試合


多種多彩な趣味趣向が満ち溢れる現代社会において、長期間一つのことに打ち込んでいる若者はほとんどいないであろう。
そんな時代の中で、青少年時代をひたすらボクシングに専心し続け、自らの夢を自らの拳で掴み取ったのが浜田剛士である。手(グー)
野性的な風貌と相まって、その出で立ちはさしずめラスト・サムライという表現がピッタリ。左斜め上
日本ボクシング界の歴史の中でも一際異彩を放つストイック・ボクサーだ。

浜田は、兄の雄二さんの影響で幼少の頃からボクシングに興味を持ち、夢はもちろん世界王者。
ボクシング設備の充実する高校でボクシングに打ち込むため、実家からバスで2時間以上もかかる沖縄水産に進学する。
青春の全てをボクシングに捧げる覚悟で練習に打ち込む浜田は、メキメキと頭角を現し、3年時にはインターハイのフェザー級王者に輝くなど、破壊的な左強打者として名を知られる存在となる。ひらめき
プロ志向が非常に強かった浜田は、アマチュアからの誘いには耳を傾けず、名門帝拳ジムからプロの世界王者を目指すことを決意。
昭和54年5月に早々とデビューすると、期待通りの2連続KO勝利。
プロ3戦目で不運な4回判定負けを喫するも、寮では大場政夫が使っていた部屋を与えられるなど、ジム側の期待はすこぶる高いものであった。
4戦目からは再びKO街道を驀進。
浜田の豪打に対抗できる相手はおらず、世界への道も早々に見えてくる圧倒的な勢い。ダッシュ(走り出すさま)
しかし、昭和56年7月、デオ・ラバゴ(比)を9回TKOに下して8連続KOを決めた試合で、浜田は不運にも主武器の左拳を骨折。
勤勉な浜田は、練習をしっかり休むことができず、完治しないうちに4度も骨折を繰り返し、絶頂期に2年間のブランクを作ってしまう。
長期ブランクによるモチベーションの低下も心配されたが、浜田のボクシングへの情熱は一向に衰えず。
昭和58年8月にカムバックすると、以前と全く変わらない豪打でバッタバッタと相手をなぎ倒していく。パンチ
それまでの記録だったムサシ中野の12連続KOをあっさりと抜き去ると、昭和59年12月には、友成光に7回KO勝利で日本ライト級王座を獲得。
昭和60年4月にはダウトーン・チュワタナ(タイ)を2回KOで下し、連続KO記録は15まで伸びる。
手のつけられない強さを見せつける浜田であったが、オーバートレーニングがたたってまたも故障が発生。
今度は右ひざの半月板を損傷。
浜田の生命線である踏み込みが効かなくなり、昭和60年7月のジョンジョン・パクイン(比)戦では12回判定勝利。
東洋太平洋ライト級王座を奪ったものの、ベストとは程遠い内容であった。
右ひざの故障は完治することはなく、手術する時間的余裕もないことから、以降だましだましコンディションを整えてリングに上がることとなる。
一刻も早い世界挑戦を狙う浜田陣営は、ファイトマネー等で交渉が困難になるライト級を回避し、S・ライト級での世界奪取に標的を変更する。
待望の世界挑戦は昭和61年7月に実現。
相手はWBC世界J・ウエルター級王者レネ・アルレドンド(メキシコ)。
若くて長身の天才型パンチャー、アルレドンドは、東洋無敵の浜田をもってしても掛け値なしの強敵。
ひざに不安のある浜田は、ラウンドが長引けば長引くほど不利であることを自覚し、初回から総力をあげて打って出る決意を固める。
果たして試合開始のゴングが鳴ると、浜田は猛り狂ったように突進し、凄まじい連打でアルレドンドをロープに釘付けにする。ドコモポイント
強気なアルレドンドも応戦したものの、浜田の鬼気迫る勢いに押されてパンチをよけそこない、まともに左右連打を喰らって失神状態でダウン。
そのまま初回3分9秒にてKOとなり、浜田の賭けはものの見事に成功。
夢である世界王座を射止めた浜田の表情は放心状態。
持てる力を全て出し尽くした男の生き様がそこには凝縮されていた。位置情報
同年12月には、ロニー・シールズ(米)を12回判定に下して初防衛に成功。
華々しいKO劇となった王座奪取戦とは対照的に、ひざの痛みと戦いながら、苦闘の末に何とか2−1の判定をモノにした試合だった。
昭和62年7月、1年ぶりの再戦となったレネ・アルレドンドとの2度目の防衛戦で、激しい打撃戦を演じたものの、今度は6回TKOで敗れて王座陥落。
右ひざが万全であれば絶対に打ち負けない自信のあった浜田は、故障を完治させてからアルレドンドとの3度目の対決に臨みたい気持ちが強く、再起に向けてトレーニングを開始。くつ
しかし、長年のオーバートレーニングの影響で、結局故障は回復しないまま。
ベストコンディションでリングに上がれそうにないことを悟った浜田は、昭和63年に引退を表明することとなった。

オーバートレーニングで選手寿命を縮めてしまった感のある浜田ではあるが、修行僧のようにボクシングだけに打ち込む姿には鬼気迫るものがあったらしい。
例えば、視力維持のためにボクシング以外のテレビ番組なども一切見ない徹底ぶりで、便利さや効率を求める現代社会の常識から考えれば異質な存在であった。
おそらく江戸時代にタイムスリップしても生き抜いていけるであろう(笑)。
現在は、日本テレビやWOWOWのボクシング解説者として活躍中。TV
豪快なイメージのある浜田だが、テレビでの解説は非常に理論的で、ボクシングを知り尽くしている感じ。ペン
一般視聴者の評判もすこぶる高いとのこと。
ボクシングの隆盛に一役買っている功労者だろう。
今後の活躍にも大いに期待したい。音楽
posted by ティト at 23:32| 岩手 ☁| Comment(16) | TrackBack(1) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月31日

渡嘉敷勝男

渡嘉敷勝男(協栄ジム)
ニックネーム:トカちゃん
沖縄県コザ市出身
WBA世界J・フライ級チャンピオン
生年月日:昭和35.7.27
戦績:19勝4KO4敗2分


明るいキャラクターでお茶の間の人気者の「トカチャン」こと渡嘉敷勝男。
一般にはもしかするとボクサーのイメージが薄いかもしれない渡嘉敷だが、同郷の先輩具志堅用高の後を継いで世界王座を5度防衛した素晴らしい世界王者であった。ぴかぴか(新しい)
渡嘉敷のスピーディでアグレッシブなファイトスタイルは管理人も好きで、当時はテレビの前で大声で応援しながら観戦したものだ。演劇

渡嘉敷は沖縄で生まれ、その後兵庫県宝塚市で少年時代を過ごす。
負けん気の強い少年だったらしく、悪さも相当やっていたとのこと(笑)。
当時の多くの不良少年がボクシングに憧れたものだが、渡嘉敷少年もボクサーを志すのにそれほど時間はかからなかった。
時は具志堅用高の全盛時代。
負けず嫌いの渡嘉敷は、同郷で同体格の具志堅打倒を目指し、上京することとなる。バス
具志堅が所属する協栄ジムの門を叩いた渡嘉敷だったが、所属ジムの同じ選手同士が原則的に試合で対戦できないことをしばらく気付かなかったらしい(笑)。
何はともあれ、昭和53年12月にプロデビュー。
具志堅のスパーリングパートーナーに抜擢されるなど、メキメキと力をつけると、昭和55年2月には伊藤富士男を6回判定に下して全日本J・フライ級新人王を獲得。手(チョキ)
同年6月に韓国の新人王の朴鐘浮U回判定で敗れて初黒星を喫するも、すぐに立ち直って再び連勝街道を走る。
昭和56年3月、巨星具志堅がWBA世界J・フライ級王座からついに陥落し、そのまま引退。
渡嘉敷は世話になった具志堅のタイトルを取り戻そうと気合満々で練習に打ち込む。スポーツ
昭和56年6月、世界ランク2位の金龍鉉を10回判定に下して世界ランクを獲得。
具志堅がオプションによる世界挑戦の権利を放棄したことから、代わりに急遽渡嘉敷に世界挑戦のチャンスが回ってくることとなる。
昭和56年12月、WBA世界J・フライ級王者の金煥珍(韓)に挑んだ渡嘉敷は、ベストファイトとも言える抜群のパフォーマンスを披露。
縦横無尽に攻めまくり、ワンサイドの15回判定勝利で見事世界の頂点を極める。位置情報
ニュー・スター誕生となるはずだったのだが、出世試合となった金龍鉉戦の勝利について金陣営があとから異議を申し立てる(通称:オレンジ事件)。
これに対して週刊誌等があることないこと面白おかしくはやし立てたことから、世論がすっかり渡嘉敷の敵になってしまう。バッド(下向き矢印)
ダーティイメージがつきまとったまま5回の防衛を成し遂げるも、渡嘉敷の実力は正当に評価されないまま。
管理人は渡嘉敷の積極的なボクシングスタイルが好きで、先入観なしに強い世界王者だったと思っている。exclamation×2
昭和58年7月、過去1勝1分の難敵ルペ・マデラ(メキシコ)との3度目の対決に4回TKO負けで6度の目の防衛に失敗。
同年10月にマデラに挑んだものの、10回判定負けで王座奪回ならず。
リング外のゴタゴタの経緯もあって引退も噂されたが、まだ燃え尽きていないと現役続行。
昭和59年8月には、WBC世界J・フライ王者の張正九(韓)への挑戦が実現する。
評価の高い強豪王者に対し、敵地へ乗り込んで真っ向勝負を挑んだ渡嘉敷だが、“韓国の虎”張の強打の前に惜しくも9回TKO負け。
これで燃え尽きた渡嘉敷は、24歳の若さながら引退を表明することとなった。

現役時代にリング外のことで苦労した渡嘉敷だが、生来の明るい性格を発揮して芸能界では大活躍。グッド(上向き矢印)
礼儀正しい人柄が多くの人に愛されているとのこと。わーい(嬉しい顔)
平成9年には渡嘉敷ジムを開設。
なかなかの熱血漢で、練習生の面倒見も良いそうだ。
その熱意が実を結び、世界王者誕生も近い将来訪れることだろう。晴れ
posted by ティト at 22:10| 岩手 ☔| Comment(24) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月27日

赤井英和

赤井英和(グリーンツダジム)
ニックネーム:浪速のロッキー
兵庫県多紀郡出身
生年月日:昭和34.8.17
戦績:19勝16KO2敗


芸能界でも大活躍中である“浪速のロッキー”赤井英和の知名度は抜群だろう。TV
現在はすっかり俳優のイメージが定着しているが、ボクサーとしての実力も出色。exclamation×2
デビュー以来12連続KOという記録を樹立したハードパンチャーで、そのエキサイティングなボクシングスタイルにファンは大熱狂したもの。演劇
タイトルには縁がなかったものの、歴代でも屈指の人気ボクサーと言っても過言ではないであろう。

少年時代の赤井は名うての不良だったそうで、大阪中にその名が轟くほどの有名人だったらしい(笑)。ドコモポイント
腕っ節には絶対の自信があった赤井少年は、当然のようにボクシングの道を志すようになる。
浪速高時代にインターハイのL・ウエルター級王座を獲得し、その実績を買われて近大へ進学。
アマチュアの最高峰であるオリンピックを目標に定める。スポーツ
規格外のハードパンチで頭角を現した赤井だったが、東西冷戦のごたごたに巻き込まれ、なんとモスクワ五輪への参加を日本がボイコット。
次の五輪までは待てないということで、赤井は早々にプロへの転向を決意する。
元々プロ向きのアグレッシブなボクシングスタイルとともに、学生プロボクサーという話題性もあり、昭和55年9月のデビュー後、赤井の人気は間もなく急上昇。
連続KOで驀進する赤井は、「浪速のロッキー」と呼ばれて一躍時代の寵児に登りつめることとなる。右斜め上
赤井の12連続KO記録の対戦相手のレベルについて疑問符を投げかける向きも一部にはあるが、のちに東洋太平洋ウエルター級王者となる名選手の尾崎富士夫をデビュー3戦目に3回KOで一蹴した試合などを見ると、その実力は文句なしに折り紙付き。
八方破れのブルファイターのイメージがつきまとう赤井だが、ボディワーク、距離やポジションの取り方の巧みさに管理人は非常に感心したものだ。ひらめき
昭和58年7月7日、14戦全勝13KOの戦績を引っさげてWBC世界J・ウエルター級王者ブルース・カリー(米)への挑戦が実現。
7月7日の7回KO宣言をぶち上げた赤井は自信満々でリングに上がる。
実力派王者カリーに対して予想は若干不利ではあったが、赤井の勢いに期待するファンは数多く、会場の近畿大学記念会館はもの凄い熱気に包まれた。ダッシュ(走り出すさま)
ゴングが鳴ると、赤井は挑戦者らしく積極的に打って出る。
ディフェンスの勘も良く、中盤まで互角の展開。
王座奪取に希望の持てる試合展開だったが、前半から飛ばしに飛ばした赤井のスタミナ切れが明らかに見られた7回、カリーは怒涛のラッシュを敢行。
疲れで動きが緩慢になったところで連打をまともにもらい、赤井は崩れるようにダウン。
7回TKO負けで世界初挑戦は失敗に終わった。
マスコミ報道では赤井の完敗という論調が多かったようだが、試合を見る限りカリーもいっぱいいっぱいで、余裕は全くなし。
試合終了時にはカリーのスタミナも残っていなかったように思う。
率直に赤井は惜しかったなあと思った記憶がある。
カリーに敗れはしたものの、赤井の世界への意欲は全く衰えず、すぐに再起となる。くつ
再起後5連勝3KOでWBC世界J・ウエルター級王者ビル・ゴステロ(米)への挑戦が内定。
しかし、世界挑戦前に思わぬ伏兵に足をすくわれることとなる。
昭和60年2月、世界前哨戦として行われたウエルター級ノンタイトル10回戦で、赤井は無名の大和田正春と対戦。
イージーな消化試合のつもりだった赤井は、調整不足のままリングに上がる。
明らかに動きの重い赤井に対し、大和田は絶好調。
序盤から一方的に大和田に打たれた赤井だったが、精神力だけでダウンを拒否。
しかし運命の7回、ついに崩れるようにリングに沈み、無念のKO負け。
ここまでは普通のKO劇だったのだが、肉体の限界を超えて打たれ続けた赤井は、試合後に意識不明となり、大阪市内の病院へ直ちに運び込まれる。
脳挫傷ということで、容態は極めて危険。
社会復帰どころか、生存する確率すら低いと言われた大手術の末、赤井は奇跡的に生還。
驚異の回復力で社会復帰も成し遂げる。
なお、赤井は現役復帰さえも熱望していたそうだが、さすがにそれは周囲が許さず。
未練を残しながらも引退することとなった。

陽気で豪放磊落。わーい(嬉しい顔)
見ているだけで人間的魅力がにじみ出てくる赤井は、管理人のお気に入りのボクサーの1人。
この人の場合、性格がボクシングに表れるという言葉がぴったりと当てはまる感じ(笑)。
その溢れ出る魅力が芸能界でも大いに光っている。ぴかぴか(新しい)
ちなみに管理人は、映画「またまたあぶない刑事」と「どついたるねん」を映画館で鑑賞しました。
ボクシングでも映画でも絵になる男である。アート
posted by ティト at 22:50| 岩手 ☀| Comment(14) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月05日

友利正

友利正(三迫ジム)
沖縄県那覇市出身
WBC世界J・フライ級チャンピオン
ニックネーム:ハンサム・ボーイ
生年月日:昭和34.12.28
戦績:19勝5KO7敗


多くの名選手を生んだ沖縄だが、J・フライ級には3人もの世界王者を輩出している。
具志堅用高、渡嘉敷勝男、そして友利正。
この3人は世代的にも近かったため、日本から立て続けに王者が誕生した当時の世界J・フライ級といえば、沖縄のお家芸とまで称されたものだった。
どちらかというと野性的な風貌の選手が多い沖縄出身ボクサーの中で、この友利は俳優のような甘いマスクが印象的。目
まさに強くてかっこいい人気ボクサーであった。るんるん

友利は、沖縄高時代にボクシングを始め、インターハイのモスキート級で優勝。手(グー)
早くから「具志堅2世」と呼ばれて将来を嘱望される。
プロ志向も強かったことから、高校卒業後に上京し、世界王者の夢を抱いて三迫ジムに入門。
昭和53年5月にプロデビューとなる。
アマチュアでの実績通り、スピーディなアウトボクシングで連勝を重ねた友利は、昭和54年3月に宮岡嗣弘を6回判定に下して全日本J・フライ級新人王を獲得。
順調にプロのキャリアを歩んでいたのだが、プロ入り10戦目の昭和54年5月、ピューマ光矢に思わぬ8回判定負け。
郷土の先輩具志堅のような強打はなく、ややポイント訴求力に欠ける友利のアウトボクシングは、時に接戦を落とす原因にもなった。
昭和54年11月、天龍数典の持つ日本J・フライ級王座に挑戦するも、10回判定負け。
ここで友利は、アマチュア仕込みのスマートなアウトボクシングを捨て、プロ向きのインファイトに活路を求めることとなる。ダッシュ(走り出すさま)
激しいトレーニングで力強さを増すと、昭和55年2月、1度は苦杯を喫した天龍数典の日本J・フライ級王座に再び挑み、1回KO勝利で見事にリベンジ。パンチ
天龍の17度目の防衛はならず、若き新王者誕生となる。
インファイトに好感触を得た友利だが、試合の面白さの代償にディフェンスがやや甘くなる。
昭和55年8月、穂積秀一のアウトボクシングにペースをつかめず、僅差の10回判定負けで日本王座の2度目の防衛に失敗。
同年10月には、穂積の返上したタイトルを伊波政春と争い、10回判定でまたも競り負ける。
自信喪失気味の友利だったが、意外とのんびり屋だった友利は、すぐに気を取り直して進撃開始。
昭和56年10月、日本王座復帰を期して多田浩幸と決定戦を行い、激しい打撃戦を10回判定で制して14ヶ月ぶりにベルトを手にする。演劇
昭和57年2月に神田吉昭を10回判定に下して初防衛戦を乗り切ると、陣営は当時のボクシングブームに乗って世界戦交渉をまとめる。
相手はWBC世界J・フライ級王者アマド・ウルスア(メキシコ)。
一般的には、いくら上げ潮ムードの友利とはいえ、強打のウルスア相手に勝ち目は薄いと思われていた。
いかし、昭和57年4月に行われたこの試合で、友利は抜群のパフォーマンスを発揮。
名トレーナーのエディ・タウンゼント氏の巧みな指導で自信を格段に増していたこともあり、ゴングが鳴るとスピード満点の連打で王者を追い詰める。
終盤に王者の反撃はあったものの、中盤までの貯金が効いて2−0ながら文句のない15回判定勝利でついに世界の頂点へ。位置情報
ちなみに、同時期のWBA王者は渡嘉敷勝男。
同郷の同世代が世界の頂点に並び立っていた。
日本人による世界J・フライ級の独占は、ファンにとってもたまらない時代であったが、友利の栄光は意外にも長続きせず。
昭和57年7月の初防衛戦で、曲者イラリオ・サパタ(パナマ)に15回判定負け。
この試合は、エスケープ気味のサパタに対してアグレッシブに攻め立てた友利が優位に思える内容だっただけに、本人はこの敗戦を受け入れず。
陣営は直ちにWBCに提訴し、これが認められて同年11月にサパタとの再戦が実現する。
結果は、再戦に滅法強いサパタの前に9回TKOの完敗。
「日本人キラー」サパタの壁を友利も打ち砕くことができなかった。
まだ23歳の若さではあったが、初めてのKO負けのショックは思いのほか大きく、カムバックの噂は流れたものの、再びリングに戻ってくることはなかった。

友利は、ボクサーとしては非常に温和な性格で、根性主義全盛の当時では異質な選手であった。猫
ぎらつくようなハングリーさが美徳とされる時代であったため、精神修行などと称して禅寺に預けられたこともあったとのこと。
個人的には大して効果があったとは思わないのだが、世界奪取という結果に結びついたことは根性主義信奉者にとって追い風になったものだった。
根性やストイックという言葉が今でももてはやされるのだが、クールでスマートな立ち振る舞いもまた個性。
ボクシングは個性を選り好みするスポーツではないのだから。
個性を大事にするエディ氏の指導は友利に合っていたのだと思う。ひらめき
長期政権を築くことはできなかったが、友利のリングキャリアには透き通った風のような爽やかさを感じるのである。ぴかぴか(新しい)
posted by ティト at 00:52| 岩手 ☀| Comment(8) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月16日

小林光二

小林光二(角海老宝石ジム)
東京都葛飾区出身
WBC世界フライ級チャンピオン
ニックネーム:下町のチャンピオン
生年月日:昭和32.8.27
戦績:24勝15KO4敗3分


新人類とか現代っ子とかいう言葉が流行した日本の80年代。
奔放かつ陽気な性格で、現代っ子王者と呼ばれたのがまさにこの小林光二。猫
東京都葛飾区出身のいわゆる下町気質の選手であった。

小林の経歴は異色。
少年時代は文化系だったそうで、二松学舎大附属高卒業後はデザイナーを志望し、東京デザイナー学院へ入学。アート
体型が細身で、もともとスポーツは得意ではなかったそうだが、体重制のボクシングには興味があり、デザインを学ぶ傍らで健康増進のために角海老宝石ジムに入門する。
大場政夫がアイドルだったそうだ。
ボクシングの面白さにのめりこみ、ぐんぐん上達する小林は、昭和53年12月にプロデビュー。晴れ
長身のサウスポースタイルから繰り出す左ストレートは強烈で、昭和54年には、後に日本フェザー級王者になる小林裕幸を2回KOに下して東日本フライ級新人王を獲得。手(チョキ)
無敗の快進撃で全日本新人王戦へ駒を進めたが、西日本の新人王があの渡辺二郎。
昭和55年2月に行われた両者の激突は、完成度で上回る渡辺の初回KOでの圧勝となる。
小林は大きな挫折を味わうが、ここでへこまないのが下町の現代っ子。
渡辺への雪辱を目指し、以降再び快進撃を開始。
射程の長い必殺の左でKOの山を築く。ダッシュ(走り出すさま)
昭和55年11月にはタイ王者のパクタイ・オソズアバを4回KO、昭和57年3月には比国王者のフラッシュ・パグタイを10回判定、同年6月には朴鐘浮5回TKOとアジアのナショナル王者を連破して世界ランクを獲得。
文句なしに世界を狙えるホープとして躍り出る。右斜め上
昭和57年9月には、ジャッカル丸山と激しい打撃戦の末に10回引き分け。
粘り強い曲者のベテランに苦戦したものの、不安視されたスタミナと馬力を証明。
冒険マッチを乗り切った小林は、世界挑戦への待機サークルに入る。
待望の世界戦は、昭和59年1月に実現。
相手はWBC世界フライ級王者フランク・セデニョ(比)。
前評判はセデニョ有利が大勢だったものの、小林自身は気持ち良いほどの自信満々ぶり。るんるん
7回KO宣言も飛び出し、気合十分で一世一代のリングに向かう。
当時流行のウォークマンにイヤホンを装着し、世界戦とは思えないほどのリラックスした表情で入場した小林に、オールドファンは顔をしかめたものだが、管理人はこういうパフォーマンスが実は大好き(笑)。音楽
このリラックスさが試合では良い方向にハマった。
硬くなるはずの世界戦で、小林は思い切りのよい左ストレートを連発。
2回、この必殺の左がセデニョに炸裂。パンチ
左左の連打で3度のダウンを奪った末の圧巻の2回KO勝利。
小林はコーナーポストに駆け上がって歓喜のガッツポーズ。手(グー)
あまりに見事な王座奪還劇に後楽園ホールの観客は唖然呆然大興奮が入り混じる。どんっ(衝撃)
陽気でファンサービスも旺盛な現代っ子王者は一躍人気者となったが、この栄光は長続きせず。
昭和59年4月、初防衛戦で指名挑戦者ガブリエル・ベルナル(メキシコ)の強打の前に、王座奪取時とは全く逆のパターンでの2回KOの惨敗。
ちなみに、小林が初防衛に失敗したことで、WBC世界フライ級王者が6人連続して初防衛戦で王座を奪われる珍しい事態となった。
得意絶頂の時期にベルナルに打ちのめされたショックは大きかったようで、カムバックしたものの、小林からは以前のような思い切りの良さは失われていく。
昭和60年3月、宿敵渡辺二郎への挑戦権を賭けて勝間和雄と対戦したが、激しい打撃戦を打ち負け、最終12回TKO負け。
渡辺への挑戦というモチベーションの糸が切れた小林は、次戦の同年8月、内田好之に7回KOで完敗。
この試合を最後に引退となった。

ともに劇的だった王座奪取と陥落。soon
太く短くとは、まさに小林のリングキャリアそのもの。
下町の江戸っ子ボクサーのイメージにぴったりではある。
スラッとした長身で、ファッションセンスも今風。ぴかぴか(新しい)
パフォーマンスも様になっていた。
身長173cmは、当時のフライ級の最長身王者であり(今もかな?)、手足の長いモデルのような体格で女性ファンにも人気があった。
やや固執するきらいはあったものの、長いリーチを利かせた左ストレートは必殺ブローと呼べる抜群の破壊力。爆弾
もっと多彩なコンビネーションを習得していれば長期政権を築けるポテンシャルはあったと思う。
渡辺二郎との2度目の激突を見られなかったことがファンとしては残念ではある。
posted by ティト at 00:07| 岩手 ☔| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月29日

村田英次郎

村田英次郎(金子ジム)
ニックネーム:エディの秘蔵っ子
滋賀県大津市出身
東洋太平洋バンタム級チャンピオン
生年月日:昭和31.11.30
戦績:22勝14KO1敗3分


名トレーナーの誉れが高い故エディ・タウンゼント氏が育てた選手の中で、実は村田英次郎が最高傑作だったと評するファンは非常に多い。ひらめき
攻防兼備で抜群のカウンターセンスを持つ村田のボクシングスタイルは非常にエキサイティング。音楽
映像を見たことがない人がいるならば是非見て欲しいほど。
文句なしに世界王者の実力を備えているはずだ。
ついに世界王座を掴み取ることができなかった村田だが、4度の世界挑戦で2度の分のいいドロー。
ルペ・ピントール、ジェフ・チャンドラーという歴代でも名王者と呼ばれた選手達を追い詰めた試合は今も語り草だ。演劇
関光徳とともに悲運のイメージが漂う名ボクサーである。

村田は、少年時代からボクシングへの憧れが非常に強かったそうで、夢は当然世界王者。
中学を卒業するとすぐに上京し、金子ジムの門を叩く。手(グー)
驚くべき行動力と強固な意志。
そして青春の全てをボクシングに注ぎ込むのだった。くつ

金子少年のボクシングセンスはずば抜けていたそうで、わずか16歳の最年少記録でアマチュアの全日本バンタム級王座を獲得。
天才少年ともてはやされる。るんるん
ちなみに辰吉選手や亀田選手も若くしてアマチュア王座を獲得して話題になったことは記憶に新しい。
プロ入りの前にモントリオール五輪出場を目指した金子だったが、五輪予選の決定戦でアマチュア時代のライバル石垣仁に惜しくも判定負け。
18歳での五輪出場はならず。
当初からプロ志向の強かった村田はすぐにプロへ転向する。
昭和51年7月にデビューした村田は、連戦連勝でKOの山を築く。パンチ
昭和53年12月には金ン栄植(韓)を12回判定に下してOPBF東洋太平洋バンタム級王座とともに世界ランクも獲得する。
とんとん拍子にOPBF王座を4度防衛すると、ジム側は村田の世界挑戦を果敢に画策。
そして、昭和55年6月に世界戦が決定。
相手はWBC世界バンタム級王者ルペ・ピントール(メキシコ)。
このピントールは、歴代屈指の名王者カルロス・サラテから王座を奪った強靭なファイターで、さしもの村田でも圧倒的不利の前評判を背負ってリングに上がることになる。
しかし、ゴングが鳴ると、一見頼りなく見える童顔の村田が、筋骨隆々のアステカの戦士ピントールとがっぷり四つの打撃戦を展開。
村田のカウンターがまともに入ってタフなピントールがぐらつく場面が何度もあり、会場は大いにヒートアップ。ダッシュ(走り出すさま)
ピントールの強打をもらってもひるまない村田のタフさにも驚いたものだった。
稀に見る強打戦の末についに試合終了のゴングが鳴る。
若干村田が優位に見えたものの、結果は無情にもドロー。
とはいえ、怪物ピントールを追い詰めた若き村田の前途は洋々。晴れ
日本屈指のホープとしてファンの期待を一身に集めることになる。
陣営はすぐにでもピントールとの再戦を狙っていたのだが、村田の強さを肌で知ったピントール陣営が対戦を渋り、なかなか話がまとまらず。
なかなか世界再挑戦が決まらない中で、WBA世界バンタム級王者のジェフ・チャンドラー(米)が村田との防衛戦に興味を示す。
そして昭和56年4月にこのチャンドラーとの世界戦が実現。
チャンドラーは、無骨なファイタータイプのピントールとは異なるタイプの曲者テクニシャン。
やりづらい相手ではあったが、村田は自信満々で立ち向かって行く。
初回に村田の強烈な右カウンターが抜群のタイミングで決まって絶好のチャンスを掴んだものの、ここを王者に凌がれると試合は一進一退。
何度か単発でクリーンヒットは奪うものの、村田の強打を警戒するチャンドラーの老獪なクリンチワーク、ホールドに後続打を寸断され、なかなか決定的なポイントを奪えず。
村田の派手な強打とチャンドラーの細かい連打で白熱した試合は、ついに15回終了のゴングを聞くこととなる。
いわゆる有効打と手数の争いになったが、従来の日本式採点に慣れているファンは村田の勝利を確信。
しかし、オフィシャルの判定はピントール戦に続いてまたもドロー。
ちょうど世界の判定基準が手数重視、アウトボクサー優位にシフトし始めた時期だっただけに、村田には不運の判定だったかもしれない。
いつ世界王者になってもおかしくない実力を備える村田はすぐさまカムバック。
当然のように3度目の世界戦を追い求める。
ピントール、チャンドラーの両王者は、難敵村田を敬遠気味で、非常に難しい交渉を強いられたが、より村田への雪辱の気持ちが強いチャンドラーがホームで村田の挑戦を受けることになる。
昭和56年12月、アトランタで激突した両者だが、研究に研究を重ねたチャンドラーが多彩な連打で村田を圧倒。
村田はこの試合に備えての入れ込み過ぎがたたり、体調を崩していたとのこと。
ほぼ一方的な内容で村田は13回TKOに退いた。
普通ならばこれで意気消沈してもおかしくないのだが、村田の世界への執念はいささかも衰えず。
昭和57年3月の再起戦では、世界ランカーであり日本での村田のライバルと目されていた磯上修一を挑戦者に迎えてOPBFタイトルの8度目の防衛戦を行う。
上り調子の磯上は、チャンドラーに惨敗を喫したばかりの村田にとって強敵と思われたが、格の違いを見せ付けるように強烈なカウンターを次々に決め、3回KOの圧勝劇で日本の第一人者の実力を証明。右斜め上
以降、OPBF王座を守りながら4度目の世界挑戦のチャンスを粘り強く待つ。
なかなか世界戦が決まらなかったことから、J・バンタム級、Jフェザー級まで手を広げてチャンスをうかがうものの、実力者村田の挑戦を快く受諾する王者は当然なし。
ちなみに、J・バンタム級の世界王者であった渡辺二郎との対戦も一時期取りざたされたが、結局実現には至らず。
さらに、新興団体IBFの世界バンタム級王座決定戦への話もあったそうだが、誇り高き村田は宿敵チャンドラーへの雪辱の道を選ぶ。
OPBF王座12度防衛の新記録を作り、WBAランク1位の地位を得た村田は、昭和58年9月、指名挑戦者としてチャンドラーとの3度目の対決へ駒を進めることとなる。
自身のボクサー人生の集大成として臨んだ1戦であったが、世界戦のキャリアで勝るチャンドラーに1歩及ばず、無念の10回KO負け。
気力体力の限界を悟った村田は、夢半ばにしてグローブを壁につるすこととなった。

世界王座を射止めるには実力とともに強い運がなければならないと言われるが、当時の世界バンタム級王者のレベルの高さは、挑戦者にとっては不運だったともいえるだろう。
村田ほどの実力者が世界王者になれないことに、管理人は、いかに世界が広いかということを実感したものだった。
それでも対ピントール戦、対チャンドラー第1戦は村田の勝利と言ってもよい内容。exclamation×2
「カミソリ英次郎」と称されるほどの鋭いカウンターの威力を存分に見せ付けた。雷
惜しむらくは、フックやアッパーを交えた多彩なコンビネーション、クリンチワーク等のずる賢さが不足していたため、際どいせめぎ合いを明白に勝ちきれなかった印象がある。
これは現在までの日本人選手全般に言えること。
村田の試合には、日本人選手が世界の大舞台で接戦を制するためのヒントが散りばめられていると管理人は思うのである。アート
posted by ティト at 01:02| 岩手 ☁| Comment(6) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月14日

具志堅用高

具志堅用高(協栄ジム)
沖縄県八重山郡石垣島出身
WBA世界J・フライ級チャンピオン
ニックネーム:カンムリワシ
生年月日:昭和30.6.26
戦績:23勝15KO1敗


日本のボクシングファンで具志堅用高を知らない者はいないはずだ。ひらめき
デビュー9戦目での世界王座奪取、世界王座13連続防衛は文句なしの輝かしい記録である。るんるん
日本に返還されたばかりの沖縄から初めて輩出された世界王者だけに、日本人のナショナリズムも大いに刺激。演劇
まさに日本が世界に誇る巨人であった。右斜め上

具志堅は、地元の石垣島の中学を卒業後、沖縄本島に渡り、興南高へ入学。
下宿をしながらボクシングを始める。
本当か嘘か、下宿していた家の主人にボクシングを強く勧められ、下宿代を餌に嫌々ボクシングを始めたというエピソードも(笑)。
何はともあれ、ボクシンセンスに非常に優れていた具志堅は、3年時にはインターハイのモスキート級で優勝。
後にボクシング強豪校として名を馳せる興南の礎を築く。
高校時代の抜群の実績を引っさげて拓殖大への推薦入学が決まっていたのだが、上京した具志堅は、なんと進学を辞退して協栄ジムに入門する。手(グー)
そして昭和49年5月に18歳で早々とプロデビュー。
輝かしいリングキャリアを誇る具志堅だが、デビュー当初は悪戦苦闘の連続だった。
というのも、当事のプロの最軽量級はフライ級で、ついこの前までモスキート級(45kg)で戦っていた具志堅にとっては体格面でハンディがあったのだ。
徐々に体が出来始めたものの、減量が不要の具志堅にとってフライ級はベストクラスではなかった。
アマチュアで62勝3敗50KO・RSCという驚異的なKO率を誇った具志堅でも、プロでは自分より大柄の相手はそう簡単には倒れてくれないことを実感していたのだ。
そんな折、昭和50年、WBAとWBCは、フライ級より1階級軽いクラスとしてJ・フライ級を新設する。
これが具志堅にとってのベストクラスとなった。音楽
対戦相手に対する体力面の不安がなくなり、強打者としての才能が一気に発現。グッド(上向き矢印)
昭和51年1月、J・フライ級世界ランカーのセザール・ゴメス・キー(米)との冒険マッチを7回KOでクリアした具志堅に、ジムは世界挑戦へのゴーサインを出す。ダッシュ(走り出すさま)
1戦はさみ、昭和51年10月、デビュー以来キャリア9戦の具志堅に世界挑戦のチャンスが到来。
相手はWBAJ・フライ級王者ファン・グスマン(ドミニカ)。
グスマンは、「小型フォアマン」の異名を持つずば抜けたKO率を誇る強打の王者で、下馬評ではキャリア不足の若き具志堅が圧倒的に不利。
余裕綽々の王者だったが、ゴングが鳴ると日本の無名選手の強さにタジタジとなる。
序盤から縦横無尽に動き回る具志堅は、2回と4回にダウンを奪って優位に立つと、ほぼ一方的に王者を打ちまくる。パンチ
そして7回、豪快な左ストレートでテンカウントを聞かせ、見事過ぎるKOで戴冠となった。位置情報
この試合がフロックではないかという向きもあったが、そんな評価は間もなく一変。
沖縄の天然記念物でもある獰猛な猛禽類の「カンムリワシ」のニックネームをもらった具志堅は、王者になって急成長を見せる。晴れ
初防衛戦のハイメ・リオス(パナマ)、2度目の防衛戦でリゴベルト・マルカノ(ベネズエラ)とのタフファイトをともに15回判定で制すと、一気に大ブレイク。
3度目の防衛戦から6連続KO防衛。手(チョキ)
ちなみにこの6連続KO防衛も日本では未だ破られていない記録である。
まさに無人の野を行くかのような防衛ロードを突き進む。くつ
一度は苦戦を強いたリオスとマルカノも、再戦ではカンムリワシの強打の軍門に下る。
防衛回数も快調に2ケタに乗り、具志堅王朝はいつまでも続くものとさえ思われた。
しかし、昭和55年6月にマルチン・バルガス(チリ)を8回KOに下して12度目の防衛に成功し、WBCを含めたJ・フライ級の最多防衛記録を作った具志堅は、しきりに周囲に引退をほのめかすようになる。
世界戦にかけるエネルギーはノンタイトル戦10試合分に相当するとはよく言われるが、長く世界の頂点でせめぎ合いを続けてきた具志堅の心身の疲労はピークに達しようとしていたのだ。
世界王座12度防衛という大目標に向けて精一杯体に鞭を入れていた具志堅にとって、それ以上のファイトはもはや酷になっていた。
そういった心身の疲弊は、13度目の防衛戦でてきめんに表れる。
昭和55年10月、比較的イージーな相手と思われたペドロ・フローレス(メキシコ)を相手に、かつてないほどの大苦戦の末になんとか15回判定勝利。
ここが具志堅にとっては潮時だった。
昭和56年3月には14度目の防衛戦にフローレスとの再戦が組まれ、今度こそは具志堅が地力の差を見せ付けるだろうという前評判に反し、フローレスの連打の前に12回KOの惨敗。
まだ25歳という若い元王者にはすぐにカムバックが期待されたが、オーバートレーニングの影響で具志堅の気力・体力はもはや限界で、結局二度とリングに上がることはなかった。

沖縄訛りの話し方に、当時の黒人ボクサーを彷彿とさせるアフロヘアーは非常に特徴的。
輪島功一氏やガッツ石松氏のように周囲を和ませるユニークな言動は微笑ましく、ボクシング界屈指の個性派でもある。わーい(嬉しい顔)
朗らかな印象の具志堅だが、現役時代のトレーニングはハードそのもの。
練習風景を映像で見たことがあるが、見ているだけで管理人は具合が悪くなってしまった記憶がある(笑)。爆弾
オーバートレーニングの弊害は間違いなくあったはずだが、早熟のカンムリワシがなぜ生まれたのか誰もが納得できる厳しい練習ぶり。

パンチ力、フットワーク、ここぞのキラーインスティンクト(殺戮本能)。ドコモ提供
どれをとっても一級品で、具志堅のボクシングは現在のファンが見ても必ず見惚れるはず。exclamation×2
強打を売りにしたアグレッシブな試合ぶりは軽量級離れしており、その倒しっぷりはまるで重量級と思わせるほどのド迫力。雷
記録だけにとどまらず、記憶に残る名王者中の名王者である。晴れ
posted by ティト at 20:35| 岩手 ☁| Comment(10) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月21日

三原正

三原正(三迫ジム)
ニックネーム:オリエンタル・エクスプレス
群馬県高崎市出身
WBA世界J・ミドル級チャンピオン
生年月日:昭和30.3.30
戦績:24勝15KO1敗


三原には、工藤政志同様、輪島功一人気による重量級ブームに乗ってとんとん拍子に世界王者に登りつめたようなイメージがある。
日本人が重量級で世界王座を奪取することは極めて困難であることは言うまでもないが、三原の場合は、ボクシングの本場アメリカで世界王座奪取という輝かしい偉業を成し遂げたこともあり、世界的な知名度も抜群だった。演劇

三原とボクシングとの出会いはなかなかユニーク。
高崎工3年の時、人手不足のボクシング部の助っ人として国体に出場。
あまりの面白さにすっかりボクシングジャンキーになってしまったとのこと。わーい(嬉しい顔)
日本大学進学後、本格的にボクシングに取り組んだ三原は、全日本L・ミドル級王者になるなど、アマチュアでは名の知れた存在となる。
プロデビューは昭和53年6月。
同時期に中央大から三迫ジムに入門した大久保克弘に対する注目度が三原よりもはるかに高かったこともあり、デビュー当初の三原への期待はそれほど高いものではなかった。
しかし、プロ入り後に伸び悩んだ大久保に対し、三原のキャリアは順調そのもの。晴れ
昭和53年4月に林戴根(韓)を5回KOに下してわずか5戦目、デビューからの連続KO記録を伸ばしつつ1年足らずで東洋太平洋J・ミドル級タイトルを獲得。
連続KOは8で途切れたものの、三原の快進撃はとどまるところを知らず、東洋太平洋王座を6度防衛してWBAのランクは1位にまで上昇。右斜め上
昭和56年6月にはアメリカ遠征を敢行し、世界戦の前座ではあったが、ボクシングの本場アメリカのファンの前でラモン・ディオニシオ(比)を鮮やかな5回KOで破り、大いに世界挑戦をアピール。
かといって興行の面からも簡単には世界挑戦できないのが重量級なのだが、ここで幸運が舞い降りた。
WBA世界J・ミドル級王者シュガー・レイ・レナードの王座返上により、空位となった王座をロッキー・フラット(米)と昭和56年11月に争うこととなる。イベント
敵地アメリカでの挑戦となったこともあり、三原の勝利を予想する向きはほとんどなく、日本のメディアもこの試合を完全無視の状態。
ろくな見送りもなく、人知れず日本を飛び立つ。飛行機
プライドを傷つけられた三原だったが、コンディションは万全。
なにくその気持ちでリングに上がった。
会場の、地元ニューヨーク州ロチェスターのヒーローであるフラットを応援するロッキー・コールの嵐の中、三原はベストバウトと言ってもいい抜群のパフォーマンスでフラットを攻め立てる。パンチ
4回にダウンを奪うなど、文句のない15回判定勝利(2−0だったが)で戴冠。位置情報
ボクシングの本場アメリカの地でレナードの後継王者となった三原を、現地メディアはオリエンタル・エクスプレスと呼び、賞賛を惜しまなかった。るんるん
この快挙に、それまで冷淡な扱いをしていた日本のメディアは、帰国した三原に対して手の平を返したような出迎え方を見せたものだった(笑)。
我が世の春を迎えた三原だったが、王座は長続きせず。
昭和57年2月、初防衛戦で難敵デビー・ムーア(米)と激しい打撃戦を繰り広げたものの、6回にムーアの連打に捕らえられてKO負け。
わずか3ヶ月で王座を手放すこととなる。
世界王座を取り戻せる自信のあった三原は、すぐに再起し、同年11月には沢田勝博を5回KOに下してまずは日本J・ミドル級王座を獲得。
この日本王座を防衛しながら世界挑戦への機会を辛抱強く待つことになる。
WBC世界J・ミドル級王者トーマス・ハーンズへの挑戦を熱望し、準備を進めていたが、なかなか三原の望むビッグ・マッチは実現せず。
ハーンズ側からのオファーがあったとかなかったとか色々噂されたものだが、実際にハーンズクラスの世界的スーパースターとの対戦は容易に決まるものではなかった。
昭和60年3月、トリッキー川口に苦戦の末に10回判定勝利を収めた後、30歳になって体力的な衰えを感じたこともあり、周囲に惜しまれつつ引退を決意することとなった。

三原の活躍した時代は、レナードやハーンズなどの歴代屈指のスーパースターが活躍した時代と重なっていたため、まさに空前の中量級ブーム。グッド(上向き矢印)
そんな時代の中で、層の厚い世界J・ミドル級王座を獲得した三原の偉業はもっと称えられてもいいと思う。ひらめき
管理人は、マスコミに憎まれ口を叩きつつ有言実行のスタイルを貫く三原氏の飄々とした姿勢が結構好きだったりする。
ビッグマウスが嫌われる傾向のある日本ではあるが、自信なくしてリングに立つ者はいないはず。exclamation×2
本人が熱望したハーンズやレナードらとの激突が実現していれば、さぞかし盛り上がったことだろう。音楽
posted by ティト at 21:33| 岩手 ☁| Comment(12) | TrackBack(1) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月08日

渡辺二郎

渡辺二郎(大阪帝拳ジム)
ニックネーム:関西の星
大阪府東淀川区出身
WBA、WBC世界J・バンタム級チャンピオン
生年月日:昭和30.3.16
戦績:26勝18KO2敗


日本ボクシング界の歴史において、世界王者の座を射止めた日本人選手は相当数に上るようになったが、正直言って超一流王者と呼べる選手はごくわずかであろう。
そんななかで、この渡辺二郎こそは、誰もが文句なしに超一流王者と呼べるであろう実力派だ。わーい(嬉しい顔)

渡辺の経歴は異色だ。
浪商高時代には水泳、追手門学院大時代は日本拳法に打ち込み、ボクシングとは無縁の学生時代を送っていたとのこと。スポーツ
どんなスポーツも難なくこなす渡辺の身体能力はずば抜けていたようで、少ないキャリアながらも日本拳法は全日本3位の好成績を収める。
目を見張る格闘センスを持つ渡辺の上昇志向は非常に強く、日本拳法に愛着はあったものの、やがて世界を舞台に勝負できるボクシングへの道を志すようになったのだという。ぴかぴか(新しい)
大学卒業後の23歳、腕試しの気持ちで始めたボクシングだったが、あまりの面白さに渡辺はすっかりボクシングの虜になってしまったそうだ。音楽
アマチュアでわずか4戦で関西バンタム級王者となった渡辺は、昭和54年3月に24歳でプロデビュー。
当時の他のボクサーと比べると遅目のプロデビューとなったが、渡辺は並のルーキーではなかった。
段違いの強さで勝ち進んだ渡辺は、昭和54年2月、のちに世界王者となる小林光二を速攻の1回KOに下して全日本フライ級新人王を獲得。
デビュー以来の戦績を7戦全KO無敗に伸ばし、世界王者候補として一気に躍り出る。ダッシュ(走り出すさま)
小林戦後に3連続判定となったが、世界を見据えたテストマッチを乗り切った渡辺は、昭和56年4月、わずか11戦目で金戊M(韓)の持つWBC世界J・バンタム級王座へ挑戦する。
敵地ソウルに乗り込んでの挑戦だったが、強靭な精神力を持つ渡辺が飄々と試合を支配。右斜め上
判定にもつれ込んだものの、渡辺の手が上がるものと思われた。
しかし、露骨な地元判定で勝者は金。
普通ならば怒り心頭なのだろうが、渡辺は文句を言うどころか、サバサバと負けを認めて笑顔で帰国。
このクールさは、ハングリーさを売り物にしがちのそれまでの日本人ボクサーには見られないもので、当時は賛否両論あったものだった。
世界初挑戦は結果的に実らなかったものの、文句なしの実力を証明した渡辺には、4戦のテストマッチを挟んで昭和57年4月に2度目のチャンスが与えられる。
相手はWBA世界J・バンタム級王者ラファエル・ペドロサ(パナマ)。
この試合は圧倒的に渡辺が支配し、文句なしの大差判定勝利で見事世界の頂点へ。位置情報
そしてここから渡辺の快進撃が始まる。
立て続けに6度防衛し、そのうち5度のKO。パンチ
無敵のWBA王者は、次の標的を世界王座統一に定める。
昭和59年7月、WBC世界J・バンタム級王者との統一戦を敢行した渡辺は、パヤオ・プーンタラット(タイ)を相手に12回判定勝利。
しかし、WBAはこの統一戦を認めず、試合後に渡辺の王座を剥奪。
実質的に統一王者となった渡辺だが、WBAとWBCのベルトを入れ替える形で、以降WBC王座を防衛していくことになる。
ちなみに、渡辺が剥奪された空位のWBA王座を手に入れたのが、タイの英雄カオサイ・ギャラクシー。
渡辺とカオサイの激突を見たかったファンは多いはず。
渡辺の王座剥奪がなければカオサイの後の栄光はなかったかも。
なにはともあれ、WBC王者として君臨することとなった渡辺は、初防衛戦で前王者パヤオを11回TKOで下すと、順調に防衛ロードを驀進。るんるん
昭和60年12月には、鬼門の敵地韓国において尹石煥を5回KOで一蹴して4度目の防衛に成功。
日本人として史上初めて敵地防衛を果たす。グッド(上向き矢印)
磐石の王者に全く死角は見当たらなかったが、昭和61年3月、5度目の防衛戦で思わぬ落とし穴。
曲者技巧派のヒルベルト・ローマン(メキシコ)のとらえどころのないボクシングになかなか噛み合わず。
それでも冷静に試合を運び、試合終了のゴングを迎える。
接戦ながらも勝利を確信していた渡辺だったが、判定は僅差で挑戦者を支持。
渡辺が余力を残したまま12回終了のゴング鳴ったような印象の試合だったため、ファンの間でも「あそこでもっと出ていれば」等のタラレバが噴出していた記憶が管理人にはある。
虎の子のタイトルを失った渡辺だが、評価が下がるような敗戦ではなく、早々の巻き返しが大いに期待されていた。演劇
ローマンとの再戦や2階級制覇挑戦など、色々と動向が噂されたものだが、結局なぜかリングに戻ってくることはなかった。
渡辺が正式に引退を発表したのが平成3年11月。
燃え尽きて引退するボクサーがほとんどの中、最後までスマートな渡辺流を貫いた。

日本拳法のスタイルを保持しながらボクシングをやり抜いた渡辺の存在は、日本ボクシング界の長い歴史の中でも一際異彩を放っている。
右利きのサウスポー構えは現在では特に珍しくはないが、当時の日本では非常に珍しいものだった。ひらめき
渡辺登場以降に一つのトレンドとして定着した感じ。
渡辺自身はマービン・ハグラーのボクシングスタイルに心酔し、自分のスタイルへの参考にしていたとのこと。
そういえばボクシングだけではなく、クールなリアクションなども渡辺とハグラーは似ているような気がする。

合理性重視の考え方でも渡辺は進歩的。ペン
非科学的な従来のボクシング界の常識を嫌い、トレーニング法や食事に至るまで、実際に効果のあるやり方をひたすら追求。
渡辺こそ科学的ボクシングの元祖と言ってもよいであろう。exclamation×2
今でも根性論やストイックさが賛美されるボクシング界だが、管理人は実は科学的合理的ボクシングの信奉者。
なので、渡辺二郎は管理人が大好きなボクサーの1人だったりする。晴れ
それだけに、あれだけ賢くスマートな思考の持ち主の渡辺氏が、私生活上のトラブルで逮捕されたことに驚いたものだった。
2007年7月にボクシング界から永久追放処分を下されてしまったことを本当に残念に思っている。
posted by ティト at 01:07| 岩手 | Comment(22) | TrackBack(1) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月17日

中島成雄

中島成雄(ヨネクラジム)
茨城県結城郡出身
WBC世界J・フライ級チャンピオン
ニックネーム:学士王者
生年月日:昭和29.1.18
戦績:13勝7KO5敗1分


天才と呼ばれる選手がボクシング界には時々出現するが、この中島成雄も典型的な天才肌のボクサーだろう。ひらめき

中島は、下館一高時代にボクシングを始め、駒沢大進学後にはポイントゲッターとして頭角を現す。
アマチュアで80勝48KO・RSC15敗の好成績を収めた後、1976年7月にヨネクラジムからプロデビュー。
パワー、スピード、テクニックのバランスの取れた中島のボクシングセンスを米倉健司会長も高く評価。右斜め上
積極的に強敵をぶつけるマッチメークで中島を鍛えて行く。手(グー)
プロ入り7戦目の昭和52年8月には、日本J・フライ級王者の天龍数典をノンタイトル戦で見事な3回KOに下し、中島の評価は急上昇。
早い段階で世界挑戦をも視野に入れていた米倉会長は、昭和53年3月には元世界王者のバーナベ・ビラカンポ(比)を中島にぶつける。
怖いものなしの中島だったが、ベテランのビラカンポのボディ攻撃に屈し、4回KO負けで初めてプロの厳しさを味わう。
頭が良く、要領も良い中島は、短時間でトレーニング効果を得る能力は非常に高かったが、ロードワークやボディを鍛えるといった地道なトレーニングが不足していたとのこと。
根性主義真っ盛りのご時世では中島の姿勢を批判する評論家もいたが、管理人は効率性重視の思考自体は実は大賛成。
短い時間で最大限の上達効果を得ることを追求してこそ工夫なのだと管理人は思っている。
話が脱線してしまったが(笑)、ビラカンポ戦で挫折を味わった中島は、1戦挟んだ同年8月には金煥珍(韓)にも10回判定で苦杯を喫する。
これですっかり中島の評価は急降下したわけだが、米倉会長は中島が持てる力を出し尽くしていないことをわかっており、世界挑戦をちらつかせて中島のやる気を煽った。
自宅の近くに中島を住まわせて会長自ら朝のロードワークに付き合ったとのこと(毎朝起こしに行ったという話も(笑))。
待ちに待った世界挑戦は昭和55年1月に実現。
相手はWBC世界J・フライ級王者の金性俊(韓)。
のんびり屋と言われた中島だったが、モチベーションは当然のことながら俄然盛り上がる。グッド(上向き矢印)
現在ボクシング界きっての理論派で知られる若き日のジョー小泉氏がトレーナーについたことも、どちらかというと根性論を嫌う中島にとっては幸運だった。
不利を予想された世界戦だったが、中島はかつてない万全の状態でリングに上がる。ダッシュ(走り出すさま)
ゴングが鳴ると、スピードと連打で王者を圧倒し、激しい打ち合いにはなったが文句のない15回判定勝利で王座奪取。るんるん
プロ入り最高とも言える出来で見事世界の頂点に立つ。位置情報
それまで今ひとつ殻を破りきれない印象の中島だったが、一世一代の大舞台で本領を発揮。演劇
底知れないポテンシャルを証明する試合ともなった。
しかし、同年3月に行われた初防衛戦で、イラリオ・サパタ(パナマ)に僅差の判定負けでわずか80日で王座陥落。
この試合は中島が終始攻勢をかけ、中島優位と思われた試合だっただけに、半年後の9月にリマッチが実現。
王座奪回に大きな期待がかけられたが、学習能力が非常に高く、再戦に滅法強い曲者サパタの柔軟性溢れる連打の前に11回KOの完敗。
このサパタへの連敗で中島のボクシングに対する執着は急激に失われ、しばらくのブランクの後、昭和56年5月、渡辺伸行との再起戦でまさかの8回KOの惨敗を喫する。
まだまだ体力的な余力は十分の中島だったが、モチベーションの低下を自覚して引退することと相成った。

見事な戴冠劇とあっさりとした凋落。
天才と呼ばれるボクサーにありがちな浮き沈みを見せた中島だったが、好調時に見せた煌きは出色。ぴかぴか(新しい)
相当なポテンシャルの持ち主だったろう。晴れ
学生時代に覚えた酒やタバコはやめられず、練習嫌いとも批判された中島だったが、要領良く強くなるセンスは抜群だった。
もっとストイックに練習に没頭していれば長期政権を築けたはずだという意見は当然あるものの、あくまでタラレバの話。
同じように大学出身の世界王者であるロイヤル小林に似た豪放磊落さがあった。
ジョー小泉氏が時々テレビで話す中島のエピソードは、いかにも生身の人間臭くて微笑ましささえ感じてしまう管理人である。わーい(嬉しい顔)
posted by ティト at 01:28| 岩手 ☁| Comment(3) | TrackBack(1) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年11月26日

工藤政志

工藤政志(熊谷ジム)
秋田県南秋田郡出身
WBA世界J・ミドル級チャンピオン
ニックネーム:
生年月日:昭和26.8.24
戦績:23勝12KO1敗


輪島功一の活躍により、日本人も重量級で十分に世界と渡り合えることが証明された1970年代。
その輪島が奪われた世界王座を日本に取り戻したのが工藤政志である。手(グー)

工藤は、もともとボクサー志向というわけではなかったそうで、高校時代はアマチュアレスリングでインターハイ3位の実績。
卒業後は自衛隊体育学校へ進み、レスリングでの五輪出場を目指していたとのこと。スポーツ
しかし、ミュンヘン五輪の選考から惜しくも外れたことで、ボクサーへの転向を決意。
同じ自衛隊体育学校からプロ入りしたロイヤル小林の活躍に大いに刺激を受けたのだという。
長らくアマチュアレスリング選手として名を馳せていた工藤の基礎体力は頭抜けており、昭和48年5月にデビューしてからは連勝街道まっしぐら。ダッシュ(走り出すさま)
昭和49年7月、わずか5戦目ながら、元東洋・日本ミドル級王者のカシアス内藤に10回判定勝利。
人気選手の内藤に引導を渡す。
昭和50年3月には、日本ミドル級王座決定戦で尾崎信義を10回判定に破り、6戦目で日本王者の座に就く。
派手な言動がなく、派手な強打もない工藤に対し、マスコミの扱いは実力に反して不当に小さいものだったが、そんなことにはめげず、工藤は昭和53年まで日本王座を磐石の強さで8度防衛。
19連勝11KO無敗の戦績を引っさげ、日本の第1人者として世界挑戦が決定。右斜め上
輪島功一のラストファイトの相手となったWBA世界J・ミドル級王者エディ・ガソ(ニカラグア)に挑むことになる。
元々ミドル級で、レスリングでも鳴らした工藤は、体力自慢のガソが相手ながらもフィジカルで上回り、ガソが得意としたクリンチ際の攻防で主導権を渡さず。
お互い決め手には欠けながらも工藤優位の印象で試合終了のゴングが鳴る。
判定は、2−1のスプリットながら工藤を支持。ぴかぴか(新しい)
日本人の世界挑戦連敗を16でストップさせる殊勲の勝利となった。手(チョキ)
しかしその割には工藤の人気は今ひとつ盛り上がらず、戦績に相応しい評価を得たとは言い難い扱い。
派手でコミカルな輪島と比較され、面白くない思いもしたことだろう。
それでもしぶとく堅実なボクシングで世界王座は3度防衛。
朱虎(韓国)、マヌエル・ゴンザレス(亜)といった強豪相手の防衛は立派の一言。
4度目の防衛戦で、元アマ王者で最強の挑戦者の呼び声高いアユブ・カルレ(ウガンダ)の華麗なボクシングの前に15回大差判定負けで王座陥落。
カルレはウガンダ初の世界王者となった。
ちなみにこのカルレから王座を奪ったのがシュガー・レイ・レナード。
工藤はカルレ戦後に引退を発表。
一度もダウンすることなくリングキャリアに終止符を打った。

世界的に次々と個性的で強い王者が生まれるJ・ミドル級において、工藤の印象は必ずしも強烈なものではなかったのかもしれないが、王座3度防衛は輝かしい戦績。ひらめき
人気王者だった輪島功一の後を継ぐように台頭し、確かな足跡を残す。演劇
アマチュアレスリング出身らしく、日本人には珍しいもみ合いを得意とする個性的なボクサーであった。グッド(上向き矢印)
posted by ティト at 13:55| 岩手 ☁| Comment(8) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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