WBC世界フライ級チャンピオン
生年月日:1966.10.22
ニックネーム:精密機械
戦績:23勝16KO1敗
現在のプロボクシング界の中で、旧ソ連勢の躍進は著しい。
共産主義の旧ソ連時代は、優秀な選手がアマチュアで素晴らしい成績を残してはいたが、当然のことながら長らくプロの世界王者は生まれなかった。
ペレストロイカ政策から民主化への動きが高まり、ソ連崩壊を経て優秀な人材が世界に羽ばたくようになると、次々に世界王者が生まれ、またたく間にプロボクシング界の勢力図が一変した感がある。
じゃあ誰が旧ソ連出身で最初の世界王者なの?という話になるが、それが何を隠そう(誰でも知ってるか(笑))、勇利・アルバチャコフなのである。
当時は輸入ボクサーという言葉が流行となっていたが、紛れもなく日本のジムが輩出した日本発の世界王者だ。
勇利は、アマチュアの世界王者の実績を引っさげて平成元年に来日。
トレーナーのジミン・アレクサンドル氏や、同じくソ連で抜群のアマチュア実績を持つオルズベック・ナザロフ、スラフ・ヤノフスキーらとともに協栄ジムへ入門する。
入門当初から実力は他を圧倒していたそうで、平成2年2月にプロデビューすると、対戦相手を全く問題とせずKOの山を築いていく。
1年間で6連続KO勝利と次元の違う強さを見せ付けた勇利(当時のリングネームはチャコフ・ユーリ)は、平成3年3月にピューマ渡久地の持つ日本フライ級王座への挑戦が決定。
渡久地は勇利同様に当時飛ぶ鳥を落とす勢いの若きホープで、無敗同士の両者の対戦はファン垂涎の好カードであった。
しかし、試合を目前にして渡久地が所属ジムとのトラブルで失踪。
試合は中止され、幻の好カードとなってしまった。
とばっちりを受けて日本王座挑戦は1試合延びてしまったが、平成2年7月、渡久地が剥奪された王座を水野隆博と争った勇利は、うっ憤を晴らすような1回KOの圧勝で日本フライ級王座を獲得。
日本王者だけに収まらない実力を見せつけた勇利に、陣営は早期世界挑戦を模索。
日本王座は1度防衛後に返上し、世界戦へのウエーティングサークルに入る。
待望の世界挑戦は平成4年6月に実現。
相手はWBC世界フライ級王者ムアンチャイ・キティカセム(タイ)。
確かこの試合は人気俳優のミッキー・ロークのエキシビションマッチの前座に組まれたもので、大勢の女性ファンが主にローク目当てに会場に足に運んだはず。
何はともあれ、大勢の観客の前で世界戦の舞台に立った勇利(世界戦時のリングネームはユーリ・海老原)は、軽快なフットワークと綺麗に伸びる右ストレートで王者を圧倒。
玄人をうならせるハイグレードなボクシングを見せ付けた末、8回KOで世界の頂点を極める。
長期政権間違いなしと誰からも太鼓判を押される見事な戴冠劇だった。
順風満帆に見える勇利のキャリアだが、ストレート主体で教科書のお手本のような綺麗なボクシングを見せる勇利は、対戦相手から研究されやすい傾向があり、意外に防衛戦は苦戦続き。
それでも伝家の宝刀右ストレートの威力で並み居る強敵をたじろがせ、着々と防衛記録を伸ばしていく。
平成5年3月には、敵地タイで前王者ムアンチャイを9回TKOに下して2度目の防衛。
平成6年8月にはウーゴ・ソト(亜)に8回KO勝利で5度目の防衛。
要所で鮮烈な勝利を飾り、勇利の評価は世界的に高まっていく。
平成8年8月、9度目の防衛戦で、かつて対戦が直前でキャンセルされたことのある渡久地隆人(ピューマ渡久地)との因縁の対決が実現。
長らく世界のトップで戦ってきた勇利と長いブランクを作ってしまった渡久地との差は歴然で、9回TKOの勇利の圧勝で決着。
しかし、この試合で右拳を骨折し、痛恨のブランクを作ることとなる。
平成9年11月、2ケタ防衛をかけて暫定王者のチャッチャイ・ダッチボーイジム(タイ)と対戦。
2年前に判定で1度勝っている相手も、1年3ヶ月のブランクの影響は大きく、いいところなく12回判定負け。
アマチュア時代から長らく世界のトップレベルで戦い続けた疲労を自覚し、この試合後すぐに引退発表となった。
クラブ制を採用する日本のボクシング界では、長期滞在の難しい外国人がジムに所属すること自体が珍しく、一昔前まで国際スポーツながら閉鎖的な環境が構築されてしまっていた。
そんなわけで、勇利らの活躍を輸入ボクサーだからと揶揄する向きも多かったが、ハイレベルのボクシングを間近で見るにつれて徐々に周りの意識も変化。
生けるお手本として彼らから学ぼうとする若いボクサーが急増していった。
また、根性主義偏重の日本の練習環境の中で、旧ソ連仕込みの科学的トレーニングで勇利らを鍛えるジミン・アレクサンドルトレーナーの練習法も日本の指導者に大きな影響を与えた。
協栄ジムの先代会長だった金平正紀氏(故人)は、当時のボクシング界きってのアイデアマン。
日本ボクシング界の切磋琢磨を促すために積極的に外国人ボクサーを受け入れ、国内リングの活性化に尽力した功労者だ。
あらゆる人間に門戸が開かれていることがボクシングの最大の長所。
他のスポーツで見られる外国人枠なるものは設けず、今後もハングリーな選手が夢を掴める場であってほしいと願う。
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ムアンチャイ1では相手のジャブに被せて右が面白いように当たっていましたね。
あれだけ合わされてしまうとジャブすら出しにくくなると思います。
ムアンチャイ2はユーリの圧勝、ムアンチャイがピンチに陥りゴングが早く鳴らされてしまいましたね。
しかしそんな不正も関係なくユーリが圧勝しました。
今は亡き飯島愛さんがリポーターになっていたのが印象的です。
>のが印象的です。
そんなマニアックな情報がまた良いね!
当初、ユーリ海老原のエビという発音が、ロシア語で女性のあそこを意味すると言うことで、ユーリは嫌でたまらなかったそうです。
しかしあのストレートを打ち抜いた後の、ひねり
きった拳の写真は今でもぞっとしますね。
ものが違う感じで日本フライ級史上最強だったのではと思います
ムアンチャイは勝っても負けても豪快な選手で、倒されっぷりも見事でしたね。
猪木さんの橋渡しはボクシング界にとって大きなプラス効果をもたらしたと思います。
こんばんわ、ようさん。
飯島愛さんについては、井岡弘樹選手の世界戦でラウンドガールを務めた姿が記憶に残っています。
飯島さんのご冥福をお祈りいたします。
こんばんわ、ようぼうさん。
ひじを痛めるんじゃないかと思うほど真っ直ぐ突き抜ける右ストレートは戦慄的でしたね。
こんばんわ、わんやさん。
協栄ジムも、彼らの人気を上げるために色々工夫していたのだと思います。
勇利選手は強すぎたため、日本人で彼に挑もうとするボクサーが少なかった印象です。
渡久地選手の他にもライバルがいれば日本のリングは盛り上がったでしょうね。
>今は亡き飯島愛さんがリポーターになっていた
>のが印象的です。
これ、勘違いでしょうね。
ムアンチャイ2のレポーターは、シンディ鈴木さんです。この時期のボクシングやキックボクシングのリポーターをやっていた人です。
ローマン対内田戦で勝利者インタビューをやったとき、勝者ローマンの腕をグイッと乱暴にひっぱってカメラの前に向けた姿が印象に残っています。
ちなみにムアンチャイ1のときは、放送席に、キューティ鈴木さんがいました。
今でもユーリさんはボクシングにかかわる仕事をしているようなので、彼の育てた選手とともにまた日本にきてもらいたいものです。カオサイやウィラポンのように。・・・ついでに亀父をKOしてくれたら!!!!(長文ですませんでした)
情報ありがとうございます。
科学的ボクシングの大家であるユーリさんであれば、素晴らしい選手を育てそうですね☆