薬師寺保栄(松田ジム)
WBC世界バンタム級チャンピオン
ニックネーム:
生年月日:昭和43・7・22
大分県津久見市出身
戦績:24勝16KO3敗1分
薬師寺保栄といえば、人気者の辰吉丈一郎との激闘がまず思い浮かべられると思う。

日本ボクシング史上でも屈指のビッグマッチとなったこの試合を勝ち抜いた男として、薬師寺の名はビッグネームとしてファンに認知されている。
派手な入場シーンなど、個性的なキャラクターが売り物ながら、ボクシングスタイルは、長身を生かしたストレート系のパンチを主武器とする玄人好みの正統派のボクサータイプ。
イメージとは裏腹に、コツコツと自分のスタイルを確立して世界王者に上りつめた苦労人である。

薬師寺は、享栄高時代にボクシングを始める。
元々運動神経は良く、インターハイではフライ級でベスト8に入るなど、なかなかの好成績を収める。
ただし、部活以外の課外活動にも熱中したらしく、地元の暴走族に入り、特攻隊長として鳴らしていたとのこと。

そんなこんなで腕っ節には自信のあった薬師寺は、高校卒業後に名古屋の松田ジムの門を叩き、昭和62年7月にプロデビュー。
自信満々でプロの道を歩みだすも、デビュー3戦目と4戦目に連敗で、早々に挫折を味わう。
打っては下がる消極的ボクシングを酷評されもしたが、徐々に生来の格闘センスを発揮。
体が出来てくるとともにシャープなストレートに威力が加わり、ホープとして関係者の期待も急上昇。
しかし、そんな矢先の平成元年、かつての暴走族仲間との暴走行為によって逮捕される失態を犯し、日本ボクシングコミッションから6ヶ月のサスペンドを課されてしまう。
お灸をすえられた薬師寺だが、その間、東南アジア遠征を敢行し、現地で試合ができたことは本人にとって貴重な経験となった。

心身ともに逞しくなって日本のリングに帰ってきた薬師寺。
しかし、平成2年6月の復帰戦で、悲劇を経験。
試合は10回KO勝利と文句なしのパフォーマンスを見せたものの、対戦相手の米坂淳の意識が試合後に戻らなくなり、なんと数日後に亡くなってしまう。
大きなショックを受けた薬師寺は、引退に心が傾いていたとのこと。
しばらく自分を見つめなおしていたが、米坂選手の夢を自分が引き継ぐことを決意。
生活態度も改め、ボクシングに一心不乱に打ち込んでいく。
平成3年6月、日本バンタム級タイトルマッチのチャンスをつかんだ薬師寺は、タフな実力派王者としてならす尾崎恵一を相手に9回TKOの快勝。

この試合が出世試合となり、世界を狙えるホープとして一般にも認知されるようになる。
また、この頃に薬師寺にとって大きな出会いもあった。
アメリカのロサンゼルスで武者修行を敢行した際、日系人トレーナーのマック・クリハラ氏の指導を受け、これが薬師寺の上達に大きな効果を与えることになる。
クリハラ氏は、当時それほど知名度が高いわけではなかったが、ポール・バンキを世界王者に押し上げた名伯楽として知る人ぞ知る存在であった。
彼の課すトレーニングは過酷なものだったそうだが、それらは全て合理的かつ科学的なもので、薬師寺はみるみる上達する自分に喜びを感じ、同氏に対する信頼を深めていく。
日本王座を防衛せずに返上し、ノンタイトル戦を重ねてじっくり実力を蓄えた薬師寺に、平成5年12月、ついに世界戦の好機は訪れる。
相手はWBC世界バンタム級王者の辺丁一(韓)。
両者ともボクサー・タイプで、ソウル五輪銀メダリストからプロの世界王者になった技巧派王者を相手に予想は当然不利とされた。
しかし、ゴングが鳴ると、薬師寺は積極的に打って出てアウトボクサーの辺を追い回す展開で活路を開く。
力強いパンチで有効打を狙う薬師寺と、回転が良く細かい手数で対抗する辺の一進一退の試合は、ついに12回終了のゴングにより判定勝負となる。
判定結果は、2−1のスプリットで薬師寺の勝利。

管理人もガッツポーズした記憶がある。
王者となって自信を増した薬師寺は、初防衛戦でホセフィーノ・スアレス(メキシコ)に10回KO勝利。
平成6年7月の2度目の防衛戦では、前王者の辺をパワーで圧倒し、11回KO勝利の完全決着で内外に王者の証明のアピールとなる。

しかし薬師寺には、真の王者であることを証明するために何としても倒さなければならない相手がいた。
それが辰吉丈一郎であった。
薬師寺が王座を獲得する前に暫定王座を獲得していた辰吉は、景気の良いビッグマウスが大勢のファンに支持される人気者で、マスコミにも正規王者の薬師寺が仮の王者であるかのような扱われ方をされていたように記憶している。
そんな人気者の辰吉陣営との対戦交渉で主導権を握るのは困難だったことから、すったもんだの末に入札となり、結果は薬師寺陣営が高額で落札。
落札するために薬師寺側が払った金銭的負担は重く、辰吉のファイトマネーをまかなうために薬師寺のファイトマネーが大幅に削られるという舞台裏があったとのこと。
それでも、地元名古屋開催を引き寄せてくれたジムに対する感謝の気持ちを秘め、薬師寺は周囲の雑音をシャットアウトしてマック・トレーナーとの猛練習に明け暮れる。
そして平成6年12月、運命の開始ゴングが鳴った。
序盤、快調に飛ばしたのは薬師寺。
得意の長い左ジャブとワンツーが辰吉の顔面をとらえ、辰吉の目の上は大きく腫れ上がる。
薬師寺がこのまま圧倒するかと思われたが、終盤に辰吉が鬼神の猛反撃。
応戦した薬師寺だが、徐々に押されて下がる場面が目立つようになる。
辰吉の盛り返しで興奮のるつぼと化した歴史的一戦は、両者疲労困憊で終了ゴングを聞くこととなった。
結果は2−0で薬師寺の勝利。

管理人の採点では中差で薬師寺の勝利だったように記憶している。
ビッグマッチを制した薬師寺には長期政権が期待されたが、平成7年7月に行われた5度目の防衛戦で不覚を取る。
バルセロナ五輪銀メダリストで指名挑戦者のウェイン・マッカラー(アイルランド)の手数に対し、単発の有効打で対抗したものの、判定は2−1でマッカラーを支持。
虎の子のタイトルを微妙な判定で落としたものの、王座再復帰も可能と思われる接戦であったことから、再戦を望む声も多く、カムバックが規定路線と思われていたのだが、4ヵ月後に引退を表明。
惜しまれつつリングを去ることとなった。
引退後は、周知のとおり芸能界で大活躍。

頭の回転の速さを生かして様々な番組で才能を発揮している。
平成19年には、薬師寺ボクシングジム&フィットネスを名古屋市に開設。
練習生と一緒に明るく楽しく汗を流しているとのことだ。
明朗活発な薬師寺氏には、ボクシング界をますます明るく照らしていただきたいと思う。