高橋ナオト(アベジム)
ニックネーム:逆転の貴公子
東京都調布市出身
日本バンタム級、J・フェザー級チャンピオン
生年月日:昭和42.11.17
戦績:19勝14KO4敗
ボクサーは、世界チャンピオンにならなければスターにはなれないといわれる。
しかし、昭和末期から平成初期にかけ、世界王者でない1人のボクサーが、世界王者以上にファンを熱狂させていた。

それが今回紹介する高橋ナオト。
スマートな風貌からは想像できない火の玉ファイトで伝説的な逆転劇を生み出し、「逆転の貴公子」と称された激闘王である。

高橋は、少年時代からボクシングに熱中し、昭和60年2月、府中農在学中に17歳でプロデビュー。
高校生ボクサーとして話題を集める。
反射神経が抜群に良く、負けん気も強かった高橋は、話題だけではなく実力も本物。
メキメキと頭角を現して連勝街道まっしぐらとなる。

昭和61年3月、片山清一を2回KOに下して全日本バンタム級新人王を獲得。
同年9月には、島袋忠司に8回判定勝利でA級トーナメント優勝と同MVPを獲得。
誰もが認めるホープとして、一気に脚光を浴びることとなる。
A級トーナメント制覇で日本ランク1位となった高橋は、昭和62年2月、指名挑戦者として、日本バンタム級王者の今里光男へ挑戦する。
実力者の今里を相手に苦戦も予想されたが、後楽園ホールは、試合前からニュースター誕生への期待が高まっていた。
ちなみに、若くて颯爽とした風貌の高橋にはマスコミの食いつきも良く、日本タイトルながら異例のテレビ生中継(管理人の地元岩手では放映なしでしたが・・・)と期待の高さを物語っていた。

ゴングが鳴ると、期待通りに高橋がシャープな動きを見せる。
ハイレベルなせめぎ合いの中、高橋のカウンターのタイミングが徐々に合い出し、5回に抜群の右カウンターがついにヒットで今里がダウン。
立ち上がった今里だが、鋭く詰めた高橋がそのままフィニッシュ。
あまりにも鮮やかな戴冠劇でデビュー以来の連勝は11に伸びる。
この試合は、この年の年間最高試合に選出された。
前途洋々の19歳の若者に、ファンは、当時低迷していたボクシング界の救世主としての役割を期待し、大きな夢を馳せたものだった。

昭和62年6月、初防衛戦で前王者の今里を3回KOに下し、実力を再証明。
早期の世界戦を期待されたものの、2度目の防衛戦で思わぬつまづき。
昭和62年10月、有利の予想の中で小林智昭にまさかの10回判定負けで王座陥落。
再起を期し、昭和63年1月、かつてA級トーナメントで戦ったことのある島袋忠司と日本バンタム級王座決定戦を争うも、雪辱に燃える島袋の右ストレートが炸裂し、6回KO負け。
まだ体が成長途上で、減量に苦しんでいた高橋は、階級を上げて再出発することを決意。
減量苦が多少和らぎ、持ち味のシャープさを取り戻して進撃開始となる。
そして伝説として語り継がれるあの名勝負が生まれることとなるのである。

平成元年1月、高橋は、ランキング1位の指名挑戦者として、日本J・フェザー級王者マーク・堀越に挑戦する。
WBA世界J・フェザー級6位のランクを持ち、世界挑戦目前と言われた強打者マークが予想ではやや有利と言われていたが、高橋も自信満々の面構えででリングへ上がる。
ゴングが鳴ると、マークが持ち前の強打をダイナミックに振り回して突進し、高橋も一歩も引かずカウンターで迎え撃つ展開。
3回にマークがラッシュを敢行すると高橋は失速。
このままマークのペースで進むかと思われたが、4回には高橋の渾身の右カウンターがまともにヒットし、マークがダウン。
さらにダウンを追加し、絶好のKOチャンスをつかんだものの、ここはマークが踏ん張ってこの回の終了ゴングが鳴る。
今度は高橋のペースになると誰もが思ったが、5回を持ちこたえられると、ダメージから回復したマークの逆襲が始まる。
パワーで打ち勝ち始めたマークに対し、高橋は徐々にスローダウン。
そして8回、堀越の丸太を振り回すような左フックがヒットし、高橋はダウン。
立ち上がったもののダメージはありありで、マークはここぞとばかりに詰めにかかる。
この回をゴングに救われた高橋だが、9回も容赦ないマークの攻勢にさらされ、もうストップかと思われた次の瞬間、高橋の起死回生の左フック、右ストレートが炸裂。
高橋の本能だけで出たようなパンチがまともに当たり、前がかりになっていたマークがストンとダウンする。
立ち上がって効いていないとファイティングポーズを取るマークだったが、これでふらふらだった高橋に力がみなぎった。

強気に前に出てくるマークに対し、今度は完全に狙いすました必殺右カウンターが強烈にヒット。

もんどり打って倒れたマークは、それでも意地で立ち上がる。
必死にファイティングポーズを取るも、ふらつく足を確認したレフェリーはカウントアウト。
史上稀に見るシーソーゲームは、高橋に凱歌が上がった。
勝利を決めた直後、精も根も尽き果てたようにリングに倒れこんだ高橋の姿が印象的で、勝者、そして敗者をも称える後楽園ホールは興奮のるつぼと化していた。
この伝説的な試合を間近で見られたファンは、まさに伝説の生ける証人であろう。

管理人も見たかった(笑)。
この試合は、世界戦を差し置き、文句なしの年間最高試合に選出される。

高橋にとっては、初戴冠の今里戦以来2度目の年間最高試合となる。
世界戦以外で2度も年間最高試合の当事者となる選手は今後も出てこないだろう。
世紀の逆転劇で、「逆転の貴公子」の称号を得た人気者の高橋に、是非早期の世界戦をというファンの声はいやがおうにも高まる。

しかし、阿部会長は、こういう危ない橋を渡るような戦いを好まなかったようで、打たせずに打つボクシングを高橋に期待していたとのこと。
実力者相手に安定した勝利を得られるようになるまでは、容易に世界戦にゴーサインを出すつもりはなかったようだ。
平成元年5月、世界前哨戦とされたタイ王者のノリー・ジョッキージムとのノンタイトル戦は、マーク戦のように先にダウンを奪われた後の逆転の3回KO勝利。
マークとの激戦のダメージはやはり抜け切れていなかったのだろう。
ファンの人気はうなぎのぼりだったが、やはり阿部会長は世界戦へのゴーサインを出さず。
日本王座の防衛戦を1つクリアーした後、世界戦への最後のテストとして、会長はノリーとの再戦を高橋に課した。
平成3年2月11日、東京ドーム。
そう、あのタイソンVSダグラスの統一世界ヘビー級タイトルマッチの行われた日のセミファイナルで高橋の世界前哨戦は行われた。
5万5千人の観客が見守る中、高橋はノリーに6度のダウンを奪われ、10回大差判定の完敗。
数々の激闘は、高橋の肉体に想像以上の大きなダメージを蓄積させていた。
体調がすぐれないまま、再起を決意したものの、平成3年1月、朴鐘弼(韓)とのノンタイトル戦で9回KO負け。
試合後しばらくして、脳内出血が判明する。
本人はなおも現役に未練があったそうだが、稀代のカリスマボクサーは若くしてリングを去ることとなった。
世界王者でない日本人ボクサーで、高橋ナオトほど多くのボクシングファンに愛された者はなかなか見当たらないであろう。
“浪速のロッキー”赤井英和の人気も凄まじいものがあったが、どちらかというとアイドル系の人気者であった赤井に対し、高橋はコアなボクシングファンに熱狂的に支持された。

引退後は、ボクシング漫画「はじめの一歩」の作者である森川ジョージ氏の協力を得て、JBスポーツクラブを設立。初代会長に就く。
森川氏は、「はじめの一歩」で高橋をモデルとするキャラクターを主人公のライバルとして登場させるほど、高橋のボクシングに心酔していたそうだ。
指導者としての高橋氏は、福島学を世界挑戦まで押し上げた実績が光る。
現在はフリーという話を聞いたが、是非今後もボクシング界のために尽力していただきたい人物である。

ちなみに、「はじめの一歩」に登場するキャラクターの中で、宮田一郎のモデルが高橋氏、鴨川源二会長のモデルが故阿部幸四郎会長とのこと。
「はじめの一歩」は、管理人も週間少年マガジンにて毎週愛読しています。