ニックネーム:浪速のロッキー
兵庫県多紀郡出身
生年月日:昭和34.8.17
戦績:19勝16KO2敗
芸能界でも大活躍中である“浪速のロッキー”赤井英和の知名度は抜群だろう。
現在はすっかり俳優のイメージが定着しているが、ボクサーとしての実力も出色。
デビュー以来12連続KOという記録を樹立したハードパンチャーで、そのエキサイティングなボクシングスタイルにファンは大熱狂したもの。
タイトルには縁がなかったものの、歴代でも屈指の人気ボクサーと言っても過言ではないであろう。
少年時代の赤井は名うての不良だったそうで、大阪中にその名が轟くほどの有名人だったらしい(笑)。
腕っ節には絶対の自信があった赤井少年は、当然のようにボクシングの道を志すようになる。
浪速高時代にインターハイのL・ウエルター級王座を獲得し、その実績を買われて近大へ進学。
アマチュアの最高峰であるオリンピックを目標に定める。
規格外のハードパンチで頭角を現した赤井だったが、東西冷戦のごたごたに巻き込まれ、なんとモスクワ五輪への参加を日本がボイコット。
次の五輪までは待てないということで、赤井は早々にプロへの転向を決意する。
元々プロ向きのアグレッシブなボクシングスタイルとともに、学生プロボクサーという話題性もあり、昭和55年9月のデビュー後、赤井の人気は間もなく急上昇。
連続KOで驀進する赤井は、「浪速のロッキー」と呼ばれて一躍時代の寵児に登りつめることとなる。
赤井の12連続KO記録の対戦相手のレベルについて疑問符を投げかける向きも一部にはあるが、のちに東洋太平洋ウエルター級王者となる名選手の尾崎富士夫をデビュー3戦目に3回KOで一蹴した試合などを見ると、その実力は文句なしに折り紙付き。
八方破れのブルファイターのイメージがつきまとう赤井だが、ボディワーク、距離やポジションの取り方の巧みさに管理人は非常に感心したものだ。
昭和58年7月7日、14戦全勝13KOの戦績を引っさげてWBC世界J・ウエルター級王者ブルース・カリー(米)への挑戦が実現。
7月7日の7回KO宣言をぶち上げた赤井は自信満々でリングに上がる。
実力派王者カリーに対して予想は若干不利ではあったが、赤井の勢いに期待するファンは数多く、会場の近畿大学記念会館はもの凄い熱気に包まれた。
ゴングが鳴ると、赤井は挑戦者らしく積極的に打って出る。
ディフェンスの勘も良く、中盤まで互角の展開。
王座奪取に希望の持てる試合展開だったが、前半から飛ばしに飛ばした赤井のスタミナ切れが明らかに見られた7回、カリーは怒涛のラッシュを敢行。
疲れで動きが緩慢になったところで連打をまともにもらい、赤井は崩れるようにダウン。
7回TKO負けで世界初挑戦は失敗に終わった。
マスコミ報道では赤井の完敗という論調が多かったようだが、試合を見る限りカリーもいっぱいいっぱいで、余裕は全くなし。
試合終了時にはカリーのスタミナも残っていなかったように思う。
率直に赤井は惜しかったなあと思った記憶がある。
カリーに敗れはしたものの、赤井の世界への意欲は全く衰えず、すぐに再起となる。
再起後5連勝3KOでWBC世界J・ウエルター級王者ビル・ゴステロ(米)への挑戦が内定。
しかし、世界挑戦前に思わぬ伏兵に足をすくわれることとなる。
昭和60年2月、世界前哨戦として行われたウエルター級ノンタイトル10回戦で、赤井は無名の大和田正春と対戦。
イージーな消化試合のつもりだった赤井は、調整不足のままリングに上がる。
明らかに動きの重い赤井に対し、大和田は絶好調。
序盤から一方的に大和田に打たれた赤井だったが、精神力だけでダウンを拒否。
しかし運命の7回、ついに崩れるようにリングに沈み、無念のKO負け。
ここまでは普通のKO劇だったのだが、肉体の限界を超えて打たれ続けた赤井は、試合後に意識不明となり、大阪市内の病院へ直ちに運び込まれる。
脳挫傷ということで、容態は極めて危険。
社会復帰どころか、生存する確率すら低いと言われた大手術の末、赤井は奇跡的に生還。
驚異の回復力で社会復帰も成し遂げる。
なお、赤井は現役復帰さえも熱望していたそうだが、さすがにそれは周囲が許さず。
未練を残しながらも引退することとなった。
陽気で豪放磊落。
見ているだけで人間的魅力がにじみ出てくる赤井は、管理人のお気に入りのボクサーの1人。
この人の場合、性格がボクシングに表れるという言葉がぴったりと当てはまる感じ(笑)。
その溢れ出る魅力が芸能界でも大いに光っている。
ちなみに管理人は、映画「またまたあぶない刑事」と「どついたるねん」を映画館で鑑賞しました。
ボクシングでも映画でも絵になる男である。
