2008年04月27日

赤井英和

赤井英和(グリーンツダジム)
ニックネーム:浪速のロッキー
兵庫県多紀郡出身
生年月日:昭和34.8.17
戦績:19勝16KO2敗


芸能界でも大活躍中である“浪速のロッキー”赤井英和の知名度は抜群だろう。?s?u
現在はすっかり俳優のイメージが定着しているが、ボクサーとしての実力も出色。exclamation?~2
デビュー以来12連続KOという記録を樹立したハードパンチャーで、そのエキサイティングなボクシングスタイルにファンは大熱狂したもの。???
タイトルには縁がなかったものの、歴代でも屈指の人気ボクサーと言っても過言ではないであろう。

少年時代の赤井は名うての不良だったそうで、大阪中にその名が轟くほどの有名人だったらしい(笑)。?h?R???|?C???g
腕っ節には絶対の自信があった赤井少年は、当然のようにボクシングの道を志すようになる。
浪速高時代にインターハイのL・ウエルター級王座を獲得し、その実績を買われて近大へ進学。
アマチュアの最高峰であるオリンピックを目標に定める。?X?|?[?c
規格外のハードパンチで頭角を現した赤井だったが、東西冷戦のごたごたに巻き込まれ、なんとモスクワ五輪への参加を日本がボイコット。
次の五輪までは待てないということで、赤井は早々にプロへの転向を決意する。
元々プロ向きのアグレッシブなボクシングスタイルとともに、学生プロボクサーという話題性もあり、昭和55年9月のデビュー後、赤井の人気は間もなく急上昇。
連続KOで驀進する赤井は、「浪速のロッキー」と呼ばれて一躍時代の寵児に登りつめることとなる。?Eホ????
赤井の12連続KO記録の対戦相手のレベルについて疑問符を投げかける向きも一部にはあるが、のちに東洋太平洋ウエルター級王者となる名選手の尾崎富士夫をデビュー3戦目に3回KOで一蹴した試合などを見ると、その実力は文句なしに折り紙付き。
八方破れのブルファイターのイメージがつきまとう赤井だが、ボディワーク、距離やポジションの取り方の巧みさに管理人は非常に感心したものだ。????????
昭和58年7月7日、14戦全勝13KOの戦績を引っさげてWBC世界J・ウエルター級王者ブルース・カリー(米)への挑戦が実現。
7月7日の7回KO宣言をぶち上げた赤井は自信満々でリングに上がる。
実力派王者カリーに対して予想は若干不利ではあったが、赤井の勢いに期待するファンは数多く、会場の近畿大学記念会館はもの凄い熱気に包まれた。?_?b?V???i?????o???????j
ゴングが鳴ると、赤井は挑戦者らしく積極的に打って出る。
ディフェンスの勘も良く、中盤まで互角の展開。
王座奪取に希望の持てる試合展開だったが、前半から飛ばしに飛ばした赤井のスタミナ切れが明らかに見られた7回、カリーは怒涛のラッシュを敢行。
疲れで動きが緩慢になったところで連打をまともにもらい、赤井は崩れるようにダウン。
7回TKO負けで世界初挑戦は失敗に終わった。
マスコミ報道では赤井の完敗という論調が多かったようだが、試合を見る限りカリーもいっぱいいっぱいで、余裕は全くなし。
試合終了時にはカリーのスタミナも残っていなかったように思う。
率直に赤井は惜しかったなあと思った記憶がある。
カリーに敗れはしたものの、赤井の世界への意欲は全く衰えず、すぐに再起となる。????
再起後5連勝3KOでWBC世界J・ウエルター級王者ビル・ゴステロ(米)への挑戦が内定。
しかし、世界挑戦前に思わぬ伏兵に足をすくわれることとなる。
昭和60年2月、世界前哨戦として行われたウエルター級ノンタイトル10回戦で、赤井は無名の大和田正春と対戦。
イージーな消化試合のつもりだった赤井は、調整不足のままリングに上がる。
明らかに動きの重い赤井に対し、大和田は絶好調。
序盤から一方的に大和田に打たれた赤井だったが、精神力だけでダウンを拒否。
しかし運命の7回、ついに崩れるようにリングに沈み、無念のKO負け。
ここまでは普通のKO劇だったのだが、肉体の限界を超えて打たれ続けた赤井は、試合後に意識不明となり、大阪市内の病院へ直ちに運び込まれる。
脳挫傷ということで、容態は極めて危険。
社会復帰どころか、生存する確率すら低いと言われた大手術の末、赤井は奇跡的に生還。
驚異の回復力で社会復帰も成し遂げる。
なお、赤井は現役復帰さえも熱望していたそうだが、さすがにそれは周囲が許さず。
未練を残しながらも引退することとなった。

陽気で豪放磊落。???[???i?????????j
見ているだけで人間的魅力がにじみ出てくる赤井は、管理人のお気に入りのボクサーの1人。
この人の場合、性格がボクシングに表れるという言葉がぴったりと当てはまる感じ(笑)。
その溢れ出る魅力が芸能界でも大いに光っている。?????????i?V?????j
ちなみに管理人は、映画「またまたあぶない刑事」と「どついたるねん」を映画館で鑑賞しました。
ボクシングでも映画でも絵になる男である。?A?[?g
posted by ティト at 22:50| 岩手 ????| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー

2008年04月05日

友利正

友利正(三迫ジム)
沖縄県那覇市出身
WBC世界J・フライ級チャンピオン
ニックネーム:ハンサム・ボーイ
生年月日:昭和34.12.28
戦績:19勝5KO7敗


多くの名選手を生んだ沖縄だが、J・フライ級には3人もの世界王者を輩出している。
具志堅用高、渡嘉敷勝男、そして友利正。
この3人は世代的にも近かったため、日本から立て続けに王者が誕生した当時の世界J・フライ級といえば、沖縄のお家芸とまで称されたものだった。
どちらかというと野性的な風貌の選手が多い沖縄出身ボクサーの中で、この友利は俳優のような甘いマスクが印象的。??
まさに強くてかっこいい人気ボクサーであった。????????

友利は、沖縄高時代にボクシングを始め、インターハイのモスキート級で優勝。???i?O?[?j
早くから「具志堅2世」と呼ばれて将来を嘱望される。
プロ志向も強かったことから、高校卒業後に上京し、世界王者の夢を抱いて三迫ジムに入門。
昭和53年5月にプロデビューとなる。
アマチュアでの実績通り、スピーディなアウトボクシングで連勝を重ねた友利は、昭和54年3月に宮岡嗣弘を6回判定に下して全日本J・フライ級新人王を獲得。
順調にプロのキャリアを歩んでいたのだが、プロ入り10戦目の昭和54年5月、ピューマ光矢に思わぬ8回判定負け。
郷土の先輩具志堅のような強打はなく、ややポイント訴求力に欠ける友利のアウトボクシングは、時に接戦を落とす原因にもなった。
昭和54年11月、天龍数典の持つ日本J・フライ級王座に挑戦するも、10回判定負け。
ここで友利は、アマチュア仕込みのスマートなアウトボクシングを捨て、プロ向きのインファイトに活路を求めることとなる。?_?b?V???i?????o???????j
激しいトレーニングで力強さを増すと、昭和55年2月、1度は苦杯を喫した天龍数典の日本J・フライ級王座に再び挑み、1回KO勝利で見事にリベンジ。?p???`
天龍の17度目の防衛はならず、若き新王者誕生となる。
インファイトに好感触を得た友利だが、試合の面白さの代償にディフェンスがやや甘くなる。
昭和55年8月、穂積秀一のアウトボクシングにペースをつかめず、僅差の10回判定負けで日本王座の2度目の防衛に失敗。
同年10月には、穂積の返上したタイトルを伊波政春と争い、10回判定でまたも競り負ける。
自信喪失気味の友利だったが、意外とのんびり屋だった友利は、すぐに気を取り直して進撃開始。
昭和56年10月、日本王座復帰を期して多田浩幸と決定戦を行い、激しい打撃戦を10回判定で制して14ヶ月ぶりにベルトを手にする。???
昭和57年2月に神田吉昭を10回判定に下して初防衛戦を乗り切ると、陣営は当時のボクシングブームに乗って世界戦交渉をまとめる。
相手はWBC世界J・フライ級王者アマド・ウルスア(メキシコ)。
一般的には、いくら上げ潮ムードの友利とはいえ、強打のウルスア相手に勝ち目は薄いと思われていた。
いかし、昭和57年4月に行われたこの試合で、友利は抜群のパフォーマンスを発揮。
名トレーナーのエディ・タウンゼント氏の巧みな指導で自信を格段に増していたこともあり、ゴングが鳴るとスピード満点の連打で王者を追い詰める。
終盤に王者の反撃はあったものの、中盤までの貯金が効いて2−0ながら文句のない15回判定勝利でついに世界の頂点へ。???u????
ちなみに、同時期のWBA王者は渡嘉敷勝男。
同郷の同世代が世界の頂点に並び立っていた。
日本人による世界J・フライ級の独占は、ファンにとってもたまらない時代であったが、友利の栄光は意外にも長続きせず。
昭和57年7月の初防衛戦で、曲者イラリオ・サパタ(パナマ)に15回判定負け。
この試合は、エスケープ気味のサパタに対してアグレッシブに攻め立てた友利が優位に思える内容だっただけに、本人はこの敗戦を受け入れず。
陣営は直ちにWBCに提訴し、これが認められて同年11月にサパタとの再戦が実現する。
結果は、再戦に滅法強いサパタの前に9回TKOの完敗。
「日本人キラー」サパタの壁を友利も打ち砕くことができなかった。
まだ23歳の若さではあったが、初めてのKO負けのショックは思いのほか大きく、カムバックの噂は流れたものの、再びリングに戻ってくることはなかった。

友利は、ボクサーとしては非常に温和な性格で、根性主義全盛の当時では異質な選手であった。?L
ぎらつくようなハングリーさが美徳とされる時代であったため、精神修行などと称して禅寺に預けられたこともあったとのこと。
個人的には大して効果があったとは思わないのだが、世界奪取という結果に結びついたことは根性主義信奉者にとって追い風になったものだった。
根性やストイックという言葉が今でももてはやされるのだが、クールでスマートな立ち振る舞いもまた個性。
ボクシングは個性を選り好みするスポーツではないのだから。
個性を大事にするエディ氏の指導は友利に合っていたのだと思う。????????
長期政権を築くことはできなかったが、友利のリングキャリアには透き通った風のような爽やかさを感じるのである。?????????i?V?????j
posted by ティト at 00:52| 岩手 ????| Comment(3) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー

2008年03月21日

WBC世界S・フェザー級タイトルマッチ

WBC世界フライ級タイトルマッチ
マニー・パッキャオ(比) 12回判定(2−1) ファン・マヌエル・マルケス(メキシコ)

パックマン アジア人初の3階級制覇達成?????????i?V?????j???u????


ちょっと遅れてビデオ観戦です。?s?u
パッキャオ、ついにやってしまいましたね。????????
管理人的にはアジア人初の3階級制覇は日本人に成し遂げてもらいたかったのですが(笑)。
それにしても見事。exclamation?~2
脱帽です。???[?^?[?X?|?[?c

試合は実力者同士らしく、まさにがっぷり四つ。
前評判に違わぬ熱戦になりましたね。?O?b?h?i???????????j
管理人の採点は114−113でマルケス勝利。
ダウンを奪うなど確実にポイントを取るラウンドを作ったパッキャオに対し、マルケスは微差のラウンドをしぶとくモノにする試合運び。
より多く相手にダメージを与えたのはパッキャオだと思いますが、迷った末にマルケスにポイントを与えたラウンドが多かったため、管理人の採点は上記のようになりました。??????
オフィシャルの採点通り、本当にどちらが勝ってもおかしくない互角の勝負という印象でした。on

カウンターで迎え撃つことに徹したマルケスに判定で勝てるんですから、管理人は改めてパッキャオの底力を感じた次第。?_?b?V???i?????o???????j
アジアの英雄はどこまで高みに登りつめるんでしょうか。?Eホ????
パックマンの今後の動向に目が離せません。exclamation?~2
posted by ティト at 01:21| 岩手 ????| Comment(2) | TrackBack(0) | 観戦記

2008年03月16日

小林光二

小林光二(角海老宝石ジム)
東京都葛飾区出身
WBC世界フライ級チャンピオン
ニックネーム:下町のチャンピオン
生年月日:昭和32.8.27
戦績:24勝15KO4敗3分


新人類とか現代っ子とかいう言葉が流行した日本の80年代。
奔放かつ陽気な性格で、現代っ子王者と呼ばれたのがまさにこの小林光二。?L
東京都葛飾区出身のいわゆる下町気質の選手であった。

小林の経歴は異色。
少年時代は文化系だったそうで、二松学舎大附属高卒業後はデザイナーを志望し、東京デザイナー学院へ入学。?A?[?g
体型が細身で、もともとスポーツは得意ではなかったそうだが、体重制のボクシングには興味があり、デザインを学ぶ傍らで健康増進のために角海老宝石ジムに入門する。
大場政夫がアイドルだったそうだ。
ボクシングの面白さにのめりこみ、ぐんぐん上達する小林は、昭和53年12月にプロデビュー。????
長身のサウスポースタイルから繰り出す左ストレートは強烈で、昭和54年には、後に日本フェザー級王者になる小林裕幸を2回KOに下して東日本フライ級新人王を獲得。???i?`???L?j
無敗の快進撃で全日本新人王戦へ駒を進めたが、西日本の新人王があの渡辺二郎。
昭和55年2月に行われた両者の激突は、完成度で上回る渡辺の初回KOでの圧勝となる。
小林は大きな挫折を味わうが、ここでへこまないのが下町の現代っ子。
渡辺への雪辱を目指し、以降再び快進撃を開始。
射程の長い必殺の左でKOの山を築く。?_?b?V???i?????o???????j
昭和55年11月にはタイ王者のパクタイ・オソズアバを4回KO、昭和57年3月には比国王者のフラッシュ・パグタイを10回判定、同年6月には朴鐘浮5回TKOとアジアのナショナル王者を連破して世界ランクを獲得。
文句なしに世界を狙えるホープとして躍り出る。?Eホ????
昭和57年9月には、ジャッカル丸山と激しい打撃戦の末に10回引き分け。
粘り強い曲者のベテランに苦戦したものの、不安視されたスタミナと馬力を証明。
冒険マッチを乗り切った小林は、世界挑戦への待機サークルに入る。
待望の世界戦は、昭和59年1月に実現。
相手はWBC世界フライ級王者フランク・セデニョ(比)。
前評判はセデニョ有利が大勢だったものの、小林自身は気持ち良いほどの自信満々ぶり。????????
7回KO宣言も飛び出し、気合十分で一世一代のリングに向かう。
当時流行のウォークマンにイヤホンを装着し、世界戦とは思えないほどのリラックスした表情で入場した小林に、オールドファンは顔をしかめたものだが、管理人はこういうパフォーマンスが実は大好き(笑)。???y
このリラックスさが試合では良い方向にハマった。
硬くなるはずの世界戦で、小林は思い切りのよい左ストレートを連発。
2回、この必殺の左がセデニョに炸裂。?p???`
左左の連打で3度のダウンを奪った末の圧巻の2回KO勝利。
小林はコーナーポストに駆け上がって歓喜のガッツポーズ。???i?O?[?j
あまりに見事な王座奪還劇に後楽園ホールの観客は唖然呆然大興奮が入り混じる。???????i?????j
陽気でファンサービスも旺盛な現代っ子王者は一躍人気者となったが、この栄光は長続きせず。
昭和59年4月、初防衛戦で指名挑戦者ガブリエル・ベルナル(メキシコ)の強打の前に、王座奪取時とは全く逆のパターンでの2回KOの惨敗。
ちなみに、小林が初防衛に失敗したことで、WBC世界フライ級王者が6人連続して初防衛戦で王座を奪われる珍しい事態となった。
得意絶頂の時期にベルナルに打ちのめされたショックは大きかったようで、カムバックしたものの、小林からは以前のような思い切りの良さは失われていく。
昭和60年3月、宿敵渡辺二郎への挑戦権を賭けて勝間和雄と対戦したが、激しい打撃戦を打ち負け、最終12回TKO負け。
渡辺への挑戦というモチベーションの糸が切れた小林は、次戦の同年8月、内田好之に7回KOで完敗。
この試合を最後に引退となった。

ともに劇的だった王座奪取と陥落。soon
太く短くとは、まさに小林のリングキャリアそのもの。
下町の江戸っ子ボクサーのイメージにぴったりではある。
スラッとした長身で、ファッションセンスも今風。?????????i?V?????j
パフォーマンスも様になっていた。
身長173cmは、当時のフライ級の最長身王者であり(今もかな?)、手足の長いモデルのような体格で女性ファンにも人気があった。
やや固執するきらいはあったものの、長いリーチを利かせた左ストレートは必殺ブローと呼べる抜群の破壊力。???e
もっと多彩なコンビネーションを習得していれば長期政権を築けるポテンシャルはあったと思う。
渡辺二郎との2度目の激突を見られなかったことがファンとしては残念ではある。
posted by ティト at 00:07| 岩手 ?J| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー

2008年03月08日

3月8日 WBC世界フライ級タイトルマッチ

WBC世界フライ級タイトルマッチ
内藤大助 12回ドロー(三者三様) ポンサクレック・ウォンジョンカム(タイ)

進化する内藤 分のいいドローで2度目の防衛に成功???i?`???L?j


ドローにはなりましたが、内藤選手は十分に持ち味を発揮してくれましたね。???[???i?????????j
管理人の採点は、116−112で内藤選手の勝利。?y??
手数と相手に与えたダメージで内藤選手が上回ったように見えましたが、毎回と言ってもいいほど微差のラウンドが続きましたので、ドローもありかなと理解しています。
とはいえ、前王者ポンサクレック選手に付け入る隙を与えない試合巧者ぶりは見事。exclamation?~2
軽やかなフットワークとトリッキーなボディワークでクリーンヒットを許しませんでした。
明らかにカウンター狙いの相手に対し、カウンターを取られないポジションに頭の位置を持っていきながらパンチを出す工夫に感心。
大振りが目立ったものの、それでもスタミナが12回もつんですから、内藤選手がいかに厳しいトレーニングを乗り越えてきたのかが窺えますよね。????????

ポンサクレック選手は、前回の試合で内藤選手の大振りのパンチをもらってしまった反省を生かし、こちらも付け入る隙を与えない試合運びを選択。
内藤選手の打ち終わりを狙う戦法だったようですが、少し見過ぎで後手に回る場面が多かった印象。
しかし、綺麗なフォームから放たれるコンパクトなコンビネーションはさすがの切れ味。?_?b?V???i?????o???????j
再び王座に返り咲く力は十分に持っていますね。?Eホ????

両者ともディフェンスに力点を置いた試合運びで、結果的に激しい打ち合いではなく、高度な技術戦となりました。
世界一を争うに相応しいレベルの高いせめぎ合いでしたね。

ポンサクレック選手はコンディションも良さそうで、一瞬たりとも気が抜けない展開でしたが、内藤選手の集中力は抜群。
ここぞの連打でポイントを奪う嗅覚にも優れた選手です。?p???`
30歳を越えて格段の進化を遂げる内藤選手は、相当研究熱心な選手なのでしょう。?A?[?g
攻防兼備の王者として長期政権を狙えると思った次第。

本人はドローに納得がいかない表情でしたが、とにかく防衛おめでとう?????????i?V?????j
これからも頑張れ、内藤選手。???[?^?[?X?|?[?c
posted by ティト at 22:55| 岩手 ????| Comment(2) | TrackBack(0) | 観戦記

2008年02月29日

村田英次郎

村田英次郎(金子ジム)
ニックネーム:エディの秘蔵っ子
滋賀県大津市出身
東洋太平洋バンタム級チャンピオン
生年月日:昭和31.11.30
戦績:22勝14KO1敗3分


名トレーナーの誉れが高い故エディ・タウンゼント氏が育てた選手の中で、実は村田英次郎が最高傑作だったと評するファンは非常に多い。????????
攻防兼備で抜群のカウンターセンスを持つ村田のボクシングスタイルは非常にエキサイティング。???y
映像を見たことがない人がいるならば是非見て欲しいほど。
文句なしに世界王者の実力を備えているはずだ。
ついに世界王座を掴み取ることができなかった村田だが、4度の世界挑戦で2度の分のいいドロー。
ルペ・ピントール、ジェフ・チャンドラーという歴代でも名王者と呼ばれた選手達を追い詰めた試合は今も語り草だ。???
関光徳とともに悲運のイメージが漂う名ボクサーである。

村田は、少年時代からボクシングへの憧れが非常に強かったそうで、夢は当然世界王者。
中学を卒業するとすぐに上京し、金子ジムの門を叩く。???i?O?[?j
驚くべき行動力と強固な意志。
そして青春の全てをボクシングに注ぎ込むのだった。????

金子少年のボクシングセンスはずば抜けていたそうで、わずか16歳の最年少記録でアマチュアの全日本バンタム級王座を獲得。
天才少年ともてはやされる。????????
ちなみに辰吉選手や亀田選手も若くしてアマチュア王座を獲得して話題になったことは記憶に新しい。
プロ入りの前にモントリオール五輪出場を目指した金子だったが、五輪予選の決定戦でアマチュア時代のライバル石垣仁に惜しくも判定負け。
18歳での五輪出場はならず。
当初からプロ志向の強かった村田はすぐにプロへ転向する。
昭和51年7月にデビューした村田は、連戦連勝でKOの山を築く。?p???`
昭和53年12月には金ン栄植(韓)を12回判定に下してOPBF東洋太平洋バンタム級王座とともに世界ランクも獲得する。
とんとん拍子にOPBF王座を4度防衛すると、ジム側は村田の世界挑戦を果敢に画策。
そして、昭和55年6月に世界戦が決定。
相手はWBC世界バンタム級王者ルペ・ピントール(メキシコ)。
このピントールは、歴代屈指の名王者カルロス・サラテから王座を奪った強靭なファイターで、さしもの村田でも圧倒的不利の前評判を背負ってリングに上がることになる。
しかし、ゴングが鳴ると、一見頼りなく見える童顔の村田が、筋骨隆々のアステカの戦士ピントールとがっぷり四つの打撃戦を展開。
村田のカウンターがまともに入ってタフなピントールがぐらつく場面が何度もあり、会場は大いにヒートアップ。?_?b?V???i?????o???????j
ピントールの強打をもらってもひるまない村田のタフさにも驚いたものだった。
稀に見る強打戦の末についに試合終了のゴングが鳴る。
若干村田が優位に見えたものの、結果は無情にもドロー。
とはいえ、怪物ピントールを追い詰めた若き村田の前途は洋々。????
日本屈指のホープとしてファンの期待を一身に集めることになる。
陣営はすぐにでもピントールとの再戦を狙っていたのだが、村田の強さを肌で知ったピントール陣営が対戦を渋り、なかなか話がまとまらず。
なかなか世界再挑戦が決まらない中で、WBA世界バンタム級王者のジェフ・チャンドラー(米)が村田との防衛戦に興味を示す。
そして昭和56年4月にこのチャンドラーとの世界戦が実現。
チャンドラーは、無骨なファイタータイプのピントールとは異なるタイプの曲者テクニシャン。
やりづらい相手ではあったが、村田は自信満々で立ち向かって行く。
初回に村田の強烈な右カウンターが抜群のタイミングで決まって絶好のチャンスを掴んだものの、ここを王者に凌がれると試合は一進一退。
何度か単発でクリーンヒットは奪うものの、村田の強打を警戒するチャンドラーの老獪なクリンチワーク、ホールドに後続打を寸断され、なかなか決定的なポイントを奪えず。
村田の派手な強打とチャンドラーの細かい連打で白熱した試合は、ついに15回終了のゴングを聞くこととなる。
いわゆる有効打と手数の争いになったが、従来の日本式採点に慣れているファンは村田の勝利を確信。
しかし、オフィシャルの判定はピントール戦に続いてまたもドロー。
ちょうど世界の判定基準が手数重視、アウトボクサー優位にシフトし始めた時期だっただけに、村田には不運の判定だったかもしれない。
いつ世界王者になってもおかしくない実力を備える村田はすぐさまカムバック。
当然のように3度目の世界戦を追い求める。
ピントール、チャンドラーの両王者は、難敵村田を敬遠気味で、非常に難しい交渉を強いられたが、より村田への雪辱の気持ちが強いチャンドラーがホームで村田の挑戦を受けることになる。
昭和56年12月、アトランタで激突した両者だが、研究に研究を重ねたチャンドラーが多彩な連打で村田を圧倒。
村田はこの試合に備えての入れ込み過ぎがたたり、体調を崩していたとのこと。
ほぼ一方的な内容で村田は13回TKOに退いた。
普通ならばこれで意気消沈してもおかしくないのだが、村田の世界への執念はいささかも衰えず。
昭和57年3月の再起戦では、世界ランカーであり日本での村田のライバルと目されていた磯上修一を挑戦者に迎えてOPBFタイトルの8度目の防衛戦を行う。
上り調子の磯上は、チャンドラーに惨敗を喫したばかりの村田にとって強敵と思われたが、格の違いを見せ付けるように強烈なカウンターを次々に決め、3回KOの圧勝劇で日本の第一人者の実力を証明。?Eホ????
以降、OPBF王座を守りながら4度目の世界挑戦のチャンスを粘り強く待つ。
なかなか世界戦が決まらなかったことから、J・バンタム級、Jフェザー級まで手を広げてチャンスをうかがうものの、実力者村田の挑戦を快く受諾する王者は当然なし。
ちなみに、J・バンタム級の世界王者であった渡辺二郎との対戦も一時期取りざたされたが、結局実現には至らず。
さらに、新興団体IBFの世界バンタム級王座決定戦への話もあったそうだが、誇り高き村田は宿敵チャンドラーへの雪辱の道を選ぶ。
OPBF王座12度防衛の新記録を作り、WBAランク1位の地位を得た村田は、昭和58年9月、指名挑戦者としてチャンドラーとの3度目の対決へ駒を進めることとなる。
自身のボクサー人生の集大成として臨んだ1戦であったが、世界戦のキャリアで勝るチャンドラーに1歩及ばず、無念の10回KO負け。
気力体力の限界を悟った村田は、夢半ばにしてグローブを壁につるすこととなった。

世界王座を射止めるには実力とともに強い運がなければならないと言われるが、当時の世界バンタム級王者のレベルの高さは、挑戦者にとっては不運だったともいえるだろう。
村田ほどの実力者が世界王者になれないことに、管理人は、いかに世界が広いかということを実感したものだった。
それでも対ピントール戦、対チャンドラー第1戦は村田の勝利と言ってもよい内容。exclamation?~2
「カミソリ英次郎」と称されるほどの鋭いカウンターの威力を存分に見せ付けた。??
惜しむらくは、フックやアッパーを交えた多彩なコンビネーション、クリンチワーク等のずる賢さが不足していたため、際どいせめぎ合いを明白に勝ちきれなかった印象がある。
これは現在までの日本人選手全般に言えること。
村田の試合には、日本人選手が世界の大舞台で接戦を制するためのヒントが散りばめられていると管理人は思うのである。?A?[?g
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2008年02月14日

具志堅用高

具志堅用高(協栄ジム)
沖縄県八重山郡石垣島出身
WBA世界J・フライ級チャンピオン
ニックネーム:カンムリワシ
生年月日:昭和30.6.26
戦績:23勝15KO1敗


日本のボクシングファンで具志堅用高を知らない者はいないはずだ。????????
デビュー9戦目での世界王座奪取、世界王座13連続防衛は文句なしの輝かしい記録である。????????
日本に返還されたばかりの沖縄から初めて輩出された世界王者だけに、日本人のナショナリズムも大いに刺激。???
まさに日本が世界に誇る巨人であった。?Eホ????

具志堅は、地元の石垣島の中学を卒業後、沖縄本島に渡り、興南高へ入学。
下宿をしながらボクシングを始める。
本当か嘘か、下宿していた家の主人にボクシングを強く勧められ、下宿代を餌に嫌々ボクシングを始めたというエピソードも(笑)。
何はともあれ、ボクシンセンスに非常に優れていた具志堅は、3年時にはインターハイのモスキート級で優勝。
後にボクシング強豪校として名を馳せる興南の礎を築く。
高校時代の抜群の実績を引っさげて拓殖大への推薦入学が決まっていたのだが、上京した具志堅は、なんと進学を辞退して協栄ジムに入門する。???i?O?[?j
そして昭和49年5月に18歳で早々とプロデビュー。
輝かしいリングキャリアを誇る具志堅だが、デビュー当初は悪戦苦闘の連続だった。
というのも、当事のプロの最軽量級はフライ級で、ついこの前までモスキート級(45kg)で戦っていた具志堅にとっては体格面でハンディがあったのだ。
徐々に体が出来始めたものの、減量が不要の具志堅にとってフライ級はベストクラスではなかった。
アマチュアで62勝3敗50KO・RSCという驚異的なKO率を誇った具志堅でも、プロでは自分より大柄の相手はそう簡単には倒れてくれないことを実感していたのだ。
そんな折、昭和50年、WBAとWBCは、フライ級より1階級軽いクラスとしてJ・フライ級を新設する。
これが具志堅にとってのベストクラスとなった。???y
対戦相手に対する体力面の不安がなくなり、強打者としての才能が一気に発現。?O?b?h?i???????????j
昭和51年1月、J・フライ級世界ランカーのセザール・ゴメス・キー(米)との冒険マッチを7回KOでクリアした具志堅に、ジムは世界挑戦へのゴーサインを出す。?_?b?V???i?????o???????j
1戦はさみ、昭和51年10月、デビュー以来キャリア9戦の具志堅に世界挑戦のチャンスが到来。
相手はWBAJ・フライ級王者ファン・グスマン(ドミニカ)。
グスマンは、「小型フォアマン」の異名を持つずば抜けたKO率を誇る強打の王者で、下馬評ではキャリア不足の若き具志堅が圧倒的に不利。
余裕綽々の王者だったが、ゴングが鳴ると日本の無名選手の強さにタジタジとなる。
序盤から縦横無尽に動き回る具志堅は、2回と4回にダウンを奪って優位に立つと、ほぼ一方的に王者を打ちまくる。?p???`
そして7回、豪快な左ストレートでテンカウントを聞かせ、見事過ぎるKOで戴冠となった。???u????
この試合がフロックではないかという向きもあったが、そんな評価は間もなく一変。
沖縄の天然記念物でもある獰猛な猛禽類の「カンムリワシ」のニックネームをもらった具志堅は、王者になって急成長を見せる。????
初防衛戦のハイメ・リオス(パナマ)、2度目の防衛戦でリゴベルト・マルカノ(ベネズエラ)とのタフファイトをともに15回判定で制すと、一気に大ブレイク。
3度目の防衛戦から6連続KO防衛。???i?`???L?j
ちなみにこの6連続KO防衛も日本では未だ破られていない記録である。
まさに無人の野を行くかのような防衛ロードを突き進む。????
一度は苦戦を強いたリオスとマルカノも、再戦ではカンムリワシの強打の軍門に下る。
防衛回数も快調に2ケタに乗り、具志堅王朝はいつまでも続くものとさえ思われた。
しかし、昭和55年6月にマルチン・バルガス(チリ)を8回KOに下して12度目の防衛に成功し、WBCを含めたJ・フライ級の最多防衛記録を作った具志堅は、しきりに周囲に引退をほのめかすようになる。
世界戦にかけるエネルギーはノンタイトル戦10試合分に相当するとはよく言われるが、長く世界の頂点でせめぎ合いを続けてきた具志堅の心身の疲労はピークに達しようとしていたのだ。
世界王座12度防衛という大目標に向けて精一杯体に鞭を入れていた具志堅にとって、それ以上のファイトはもはや酷になっていた。
そういった心身の疲弊は、13度目の防衛戦でてきめんに表れる。
昭和55年10月、比較的イージーな相手と思われたペドロ・フローレス(メキシコ)を相手に、かつてないほどの大苦戦の末になんとか15回判定勝利。
ここが具志堅にとっては潮時だった。
昭和56年3月には14度目の防衛戦にフローレスとの再戦が組まれ、今度こそは具志堅が地力の差を見せ付けるだろうという前評判に反し、フローレスの連打の前に12回KOの惨敗。
まだ25歳という若い元王者にはすぐにカムバックが期待されたが、オーバートレーニングの影響で具志堅の気力・体力はもはや限界で、結局二度とリングに上がることはなかった。

沖縄訛りの話し方に、当時の黒人ボクサーを彷彿とさせるアフロヘアーは非常に特徴的。
輪島功一氏やガッツ石松氏のように周囲を和ませるユニークな言動は微笑ましく、ボクシング界屈指の個性派でもある。???[???i?????????j
朗らかな印象の具志堅だが、現役時代のトレーニングはハードそのもの。
練習風景を映像で見たことがあるが、見ているだけで管理人は具合が悪くなってしまった記憶がある(笑)。???e
オーバートレーニングの弊害は間違いなくあったはずだが、早熟のカンムリワシがなぜ生まれたのか誰もが納得できる厳しい練習ぶり。

パンチ力、フットワーク、ここぞのキラーインスティンクト(殺戮本能)。?h?R??????
どれをとっても一級品で、具志堅のボクシングは現在のファンが見ても必ず見惚れるはず。exclamation?~2
強打を売りにしたアグレッシブな試合ぶりは軽量級離れしており、その倒しっぷりはまるで重量級と思わせるほどのド迫力。??
記録だけにとどまらず、記憶に残る名王者中の名王者である。????
posted by ティト at 20:35| 岩手 ????| Comment(6) | TrackBack(0) | 日本人ボクサー

2008年02月08日

WBC世界暫定フェザー級タイトルマッチ ビデオ観戦(すっかり時期遅れ)

見よう見ようと思っていてすっかり見るタイミングを逃していたホルヘ・リナレスvsオスカー・ラリオスのWBC世界暫定フェザー級タイトルマッチを今頃ビデオ観戦しました(笑)。
当然結果は知っていながら観戦したわけですが、非常に面白い試合でした。?O?b?h?i???????????j
リナレス選手はもっとガムシャラに向かっていくものと思っていましたが、テクニックで百戦錬磨のラリオス選手に対抗しましたね。
手数が少なかったものの、重いパンチを確実に決めて徐々に相手を弱らせ、終盤に仕留める見事な試合巧者ぶり。
ラリオス選手の手数と馬力に苦しんだものの、とりあえずは完勝でしょう。????????
ただし、今後に向けて課題も見つかりました。
まずは手数が少ないですね。
この試合でもペースは握ってはいたものの、採点となると微妙なラウンドがほとんどでしたから。
連打の回転も物足りない感じ。
一発一発をしっかり打つ選手ではありますが、連打でレフェリーストップを呼び込むような勢いも欲しいところです。
意外と驚いたのが打たれ強さ。
アジアの英雄マニー・パッキャオをもぐらつかせたラリオス選手の強打を何度かもらってしまいましたが、バタバタする場面は全くありませんでした。
今までわかりませんでしたが、実は相当頑丈な選手かもしれません。
世界初挑戦の緊張感がありありで、フットワークに硬さが見られましたが、ディフェンスは及第点。
なかなかパンチがクリーンヒットしないラリオス選手はかなり焦っていた感じです。

若くて魅力的な王者が日本のジムから誕生したのは本当に喜ばしい限りですね。????????
世界王座統一や複数階級制覇も期待される逸材ですし、今後のマッチメークに期待です。
posted by ティト at 23:25| 岩手 ????| Comment(2) | TrackBack(0) | 観戦記

2008年01月21日

三原正

三原正(三迫ジム)
ニックネーム:オリエンタル・エクスプレス
群馬県高崎市出身
WBA世界J・ミドル級チャンピオン
生年月日:昭和30.3.30
戦績:24勝15KO1敗


三原には、工藤政志同様、輪島功一人気による重量級ブームに乗ってとんとん拍子に世界王者に登りつめたようなイメージがある。
日本人が重量級で世界王座を奪取することは極めて困難であることは言うまでもないが、三原の場合は、ボクシングの本場アメリカで世界王座奪取という輝かしい偉業を成し遂げたこともあり、世界的な知名度も抜群だった。???

三原とボクシングとの出会いはなかなかユニーク。
高崎工3年の時、人手不足のボクシング部の助っ人として国体に出場。
あまりの面白さにすっかりボクシングジャンキーになってしまったとのこと。???[???i?????????j
日本大学進学後、本格的にボクシングに取り組んだ三原は、全日本L・ミドル級王者になるなど、アマチュアでは名の知れた存在となる。
プロデビューは昭和53年6月。
同時期に中央大から三迫ジムに入門した大久保克弘に対する注目度が三原よりもはるかに高かったこともあり、デビュー当初の三原への期待はそれほど高いものではなかった。
しかし、プロ入り後に伸び悩んだ大久保に対し、三原のキャリアは順調そのもの。????
昭和53年4月に林戴根(韓)を5回KOに下してわずか5戦目、デビューからの連続KO記録を伸ばしつつ1年足らずで東洋太平洋J・ミドル級タイトルを獲得。
連続KOは8で途切れたものの、三原の快進撃はとどまるところを知らず、東洋太平洋王座を6度防衛してWBAのランクは1位にまで上昇。?Eホ????
昭和56年6月にはアメリカ遠征を敢行し、世界戦の前座ではあったが、ボクシングの本場アメリカのファンの前でラモン・ディオニシオ(比)を鮮やかな5回KOで破り、大いに世界挑戦をアピール。
かといって興行の面からも簡単には世界挑戦できないのが重量級なのだが、ここで幸運が舞い降りた。
WBA世界J・ミドル級王者シュガー・レイ・レナードの王座返上により、空位となった王座をロッキー・フラット(米)と昭和56年11月に争うこととなる。?C?x???g
敵地アメリカでの挑戦となったこともあり、三原の勝利を予想する向きはほとんどなく、日本のメディアもこの試合を完全無視の状態。
ろくな見送りもなく、人知れず日本を飛び立つ。???s?@
プライドを傷つけられた三原だったが、コンディションは万全。
なにくその気持ちでリングに上がった。
会場の、地元ニューヨーク州ロチェスターのヒーローであるフラットを応援するロッキー・コールの嵐の中、三原はベストバウトと言ってもいい抜群のパフォーマンスでフラットを攻め立てる。?p???`
4回にダウンを奪うなど、文句のない15回判定勝利(2−0だったが)で戴冠。???u????
ボクシングの本場アメリカの地でレナードの後継王者となった三原を、現地メディアはオリエンタル・エクスプレスと呼び、賞賛を惜しまなかった。????????
この快挙に、それまで冷淡な扱いをしていた日本のメディアは、帰国した三原に対して手の平を返したような出迎え方を見せたものだった(笑)。
我が世の春を迎えた三原だったが、王座は長続きせず。
昭和57年2月、初防衛戦で難敵デビー・ムーア(米)と激しい打撃戦を繰り広げたものの、6回にムーアの連打に捕らえられてKO負け。
わずか3ヶ月で王座を手放すこととなる。
世界王座を取り戻せる自信のあった三原は、すぐに再起し、同年11月には沢田勝博を5回KOに下してまずは日本J・ミドル級王座を獲得。
この日本王座を防衛しながら世界挑戦への機会を辛抱強く待つことになる。
WBC世界J・ミドル級王者トーマス・ハーンズへの挑戦を熱望し、準備を進めていたが、なかなか三原の望むビッグ・マッチは実現せず。
ハーンズ側からのオファーがあったとかなかったとか色々噂されたものだが、実際にハーンズクラスの世界的スーパースターとの対戦は容易に決まるものではなかった。
昭和60年3月、トリッキー川口に苦戦の末に10回判定勝利を収めた後、30歳になって体力的な衰えを感じたこともあり、周囲に惜しまれつつ引退を決意することとなった。

三原の活躍した時代は、レナードやハーンズなどの歴代屈指のスーパースターが活躍した時代と重なっていたため、まさに空前の中量級ブーム。?O?b?h?i???????????j
そんな時代の中で、層の厚い世界J・ミドル級王座を獲得した三原の偉業はもっと称えられてもいいと思う。????????
管理人は、マスコミに憎まれ口を叩きつつ有言実行のスタイルを貫く三原氏の飄々とした姿勢が結構好きだったりする。
ビッグマウスが嫌われる傾向のある日本ではあるが、自信なくしてリングに立つ者はいないはず。exclamation?~2
本人が熱望したハーンズやレナードらとの激突が実現していれば、さぞかし盛り上がったことだろう。???y
posted by ティト at 21:33| 岩手 ????| Comment(5) | TrackBack(1) | 日本人ボクサー

2008年01月15日

1月14日 WBA世界S・フライ級タイトルマッチ

WBA世界S・フライ級タイトルマッチ
アレクサンデル・ムニョス(ベネズエラ) 12回判定(3−0) 川嶋勝重

川嶋 強打の王者を追い詰めるもあと一歩攻めきれず惜しまれる僅差判定負け


本当に惜しかったですねえ。
管理人の採点で114−114のドロー。
試合全体のペースは川嶋選手が握っていたものの、ムニョス選手の強打を警戒し過ぎて手数が少なかったことがポイントに響いてしまった感じです。
ムニョス選手は減量失敗の影響か、完全にスタミナ切れで中盤以降はフラフラでしたが、クリーンヒットは許さず、手打ちになりながらも手数をしっかり出していたことがジャッジに好印象を与えたものと思われます。
川嶋選手の後半勝負という作戦はずばりはまりましたが、前半に相手の様子を見すぎて安易にポイントを与えてしまったことが誤算でした。
ボクシングはいかに余力を残したかでなく、いかにパンチを出して数多く当てるかを競うスポーツなのだということを改めて実感させられた試合でした。????????

しかし川嶋選手、これで引退とはあまりに惜しい。exclamation?~2
試合をする度に進化していますし、管理人にはまだまだ発展途上に見えます。?O?b?h?i???????????j
でも健康やその他諸々の事情があっての決断でしょう。

数々の素晴らしい激闘をファンは決して忘れません。???[???i?????????j
川嶋選手、本当にお疲れ様でした。?????????i?V?????j
posted by ティト at 21:57| 岩手 ????| Comment(2) | TrackBack(2) | 観戦記